韓国で観客1000万人、『神と共に』を読み直す 死後の法廷が日本の観客にも問いかけること

韓国で観客1000万人、『神と共に』を読み直す 死後の法廷が日本の観客にも問いかけること

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「人を救った人生」も、ひと言では裁けない

火災現場で少女を救い、命を落とした消防士。その最期だけを聞けば、多くの人は彼を英雄と呼ぶだろう。ところが、韓国映画『神と共に 第一章:罪と罰』は、そこから話を始める。生前の行いを死後の法廷で振り返ると、立派な人物という評価だけでは説明しきれない事情が浮かび上がる。救った命と救えなかった命、家族への思いと口にできなかった言葉。一人の人生を、最後の一場面だけで判断してよいのかという問いが、大掛かりなファンタジーの中心にある。

キム・ヨンファ監督が手がけ、韓国で2017年12月20日に公開された作品だ。原作はチュ・ホミンの同名漫画。韓国で観客動員1000万人を超えた映画を振り返る特集で改めて取り上げられた。ただ、いま見直す意味は、かつての興行記録を確認することだけにない。漫画の世界を実写の大作へ組み替える方法、映像技術と家族の物語を結びつける演出、劇場を離れて別の観客と出会う作品の歩みは、日本の映画を見るうえでも考える材料になる。

本作は、韓国社会をそのまま映した写実的な作品ではない。死者が七つの地獄を巡るという、現実から遠く離れた設定を持つ。それでも、そこで問われるのは仕事、家族、責任、後悔といった身近な事柄だ。知らない国の死後の世界を訪ねたつもりが、いつの間にか自分にも覚えのある悩みに向き合わされる。その仕組みをたどると、「1000万人映画」という看板の内側が見えてくる。

49日間、七つの裁判で人生をたどる

チャ・テヒョンが演じる消防士キム・ジャホンは、死亡直後に二人の使者、ヘウォンメクとイ・ドクチュンに出会う。死後の世界への入り口では、さらにカンニムが待つ。三人はジャホンを案内するだけでなく、彼を裁判で弁護する役割も担う。死者を連れていく存在が、その死者を救うために言葉を尽くす。この二重の役割が、本作の物語を動かしていく。

ジャホンに与えられるのは49日間。その間に、殺人、怠惰、うそ、不義、裏切り、暴力、そして家族の関係にかかわる「天倫」をめぐり、七つの地獄で裁きを受ける。消防士として人を救った最期は重要でも、それだけで人生全体の審査が終わるわけではない。仕事で何を選び、周囲にどう接し、どんな事情を抱えてきたかが、異なる角度から問い直される。

三人の使者にも事情がある。1000年の間に49人の死者を転生させれば、自分たちも人間に生まれ変われると、閻魔大王から約束されているのだ。ジャホンは彼らが担当する48人目であり、19年ぶりに現れた、正しく生きたとされる死者でもある。彼の裁判は、使者たち自身の将来を左右する。弁護する側とされる側は、単なる案内人と旅人ではなく、同じ結果を目指す関係に置かれている。

この設定を押さえれば、複雑に見える世界にも入りやすい。観客は地獄の名前や仕組みをすべて暗記する必要はない。目の前の裁判で何が問題になり、使者たちが何を説明しようとしているのかを追えばよい。冒険映画としての移動と、法廷劇としての検証が並行して進むため、未知の空間を見せる場面にも、人物を知るための意味が生まれている。

四十九日と閻魔様――日本にもある入り口

韓国語の「イ・スン」は生きている世界、「チョ・スン」は死後の世界を指す。日本語なら、おおむね「この世」と「あの世」と考えると分かりやすい。「チョスンサジャ」と呼ばれる使者は、本作では死者を導き、弁護する存在として登場する。日本語の「死神」を連想する読者もいるだろうが、それだけでは役割を言い表せない。命を奪う恐ろしい存在というより、死後の手続きをともに進める案内人であり、弁護人なのだ。

一方、49日という期間は、日本の読者にはなじみがある。日本の仏教の葬送習俗でも、四十九日は重要な節目とされる。閻魔様が死者の行いを裁くというイメージも、昔話や寺院の絵画などを通じて知られている。宗派や地域によって受け止め方は異なるが、本作の世界を理解するための足場は、日本側にもあると言ってよい。

ただし、なじみのある言葉が出てくるからといって、日本の宗教的な説明をそのまま当てはめることはできない。49日間に七つの裁判を受け、使者にも転生の条件が課されるという仕組みは、まず映画が組み立てたルールとして受け止めたい。同様に、韓国の人々がみな、この映画のような死後の世界を信じているわけではない。文化的な共通点は入り口にはなるが、現実の信仰と娯楽作品の設定は分けて考える必要がある。

七つの裁判に含まれる「天倫」も説明が必要な言葉だ。人として守るべき、特に親子などの関係にかかわる道を意味し、本作では家族への責任を考える手がかりとなる。単に「親孝行できたか」という一問に置き換えると、物語の幅を狭めてしまう。家族を思う気持ちがあっても、行動や言葉が伴わないことはある。そのずれをどう受け止めるかが、裁判という形で問われている。

1000万人という数字は、何を示すのか

韓国映画を紹介する際、「観客1000万人突破」は大作の成功を伝える象徴的な表現として使われる。日本では映画の成績を興行収入で伝える記事が目立つのに対し、韓国では観客動員数が見出しになりやすい。日本の読者は、まず数字の単位が違うことを押さえたい。1000万人とは興行収入のことではなく、また、必ずしも重複のない1000万人の個人が見たという意味でもない。

本作には、動員の大きさを裏付ける受賞歴もある。2018年の第39回青龍映画賞では、韓国映画最多観客賞を受賞。同年の第23回春史映画祭では、観客が選ぶ韓国映画人気賞に輝いた。最多観客と人気投票は同じ尺度ではないが、いずれも本作が広い観客層と接点を持った作品であることを示す記録だ。

もっとも、数字が大きいからといって、すべての観客が同じ場面で感動したとは限らない。映像の迫力を楽しむ人もいれば、家族の物語に引き込まれる人、感情を強く促す演出に距離を感じる人もいるだろう。動員は作品がどれだけ届いたかを示すものであり、内容に対する全員一致の評価ではない。興行的な成功と、個々の表現をどう見るかは、別の問いとして残る。

また、提示された記録だけでヒットの原因を一つに絞ることもできない。漫画原作、俳優陣、映像技術、家族をめぐる物語など、作品には複数の要素がある。しかし、どの要素が観客の来場をどれほど後押ししたかを示す調査は、今回の資料にはない。「家族を描けば韓国で当たる」といった説明ではなく、それぞれの要素が映画の中でどう結びついているかを見る方が、作品の理解につながる。

劇場から秋夕のテレビへ、変わる観賞の場

本作の歩みは劇場公開で終わらない。翌2018年9月26日には、SBSとKNN釜山慶南放送など九つの地域民放ネットワークを通じ、秋夕の特選映画として放送された。報じられた視聴率は13.6%を上回る。映画館で大勢の観客を集めた後、テレビという別の場でも視聴者と出会ったことが分かる。

秋夕は、家族や親族が集まり、先祖をしのぶ習慣を伴う韓国の大切な年中行事だ。日本の読者には、お盆の帰省と重なる面を持つ祝日と説明すればイメージしやすい。ただし、日程や儀礼、休日のあり方まで同じではない。日本の年末年始などに映画の特別編成が組まれるように、韓国でもこうした連休のテレビ番組は、普段とは違う観賞の機会をつくる。

死後の世界と家族を扱う本作が秋夕に放送されたことには、作品と視聴環境の関係を考える手がかりがある。とはいえ、実際に誰が誰と見たのか、家族を描いたことが視聴率を押し上げたのかまでは、この記録からは分からない。確認できるのは、劇場のヒット作が翌年の祝日編成に入り、家庭の画面へ届いたという点だ。

観客動員数とテレビ視聴率は、算出の仕組みも対象も異なる。二つを足して作品の「総観客数」を出すことはできず、放送の数字だけで映画館以上の人気だったとも言えない。それでも、観賞の場が変われば、新たに見る人も、見直す人も生まれうる。公開時の順位だけでは捉えられない、作品の届き方を示す事例である。

コンピューターグラフィックスは、物語の舞台をつくる

本作は、かなりの部分をコンピューターグラフィックスで表現したファンタジーとして制作された。死後の世界や複数の地獄は、現実の風景を撮るだけでは成立しにくい。映像技術には、見た目を華やかにする以上の役割がある。観客が「ここにはこういう規則があり、登場人物はそこから逃れられない」と感じられる空間をつくることだ。

ファンタジーの映像を評価するとき、現実のように見えるか、規模が大きいかに目が向きやすい。しかし本作では、その場所が人物の置かれた状況をどう伝えているかも見どころとなる。地獄の風景がどれほど精緻でも、何が危機なのか分からなければ、裁判の緊張は伝わりにくい。逆に、空間のルールと人物の目的が結びつけば、非現実的な場面も物語の一部として受け止めやすくなる。

視覚面の仕事では、チン・ジョンヒョンの受賞歴が目を引く。2018年の第54回百想芸術大賞で映画部門の芸術賞を受けたほか、第38回韓国映画評論家協会賞と第39回青龍映画賞で技術賞を受賞。第5回韓国映画製作者協会賞でも技術賞を得ている。複数の映画賞で、作品を支えた芸術・技術面の仕事が認められたことになる。

ただし、これらの受賞から、すべての場面の出来栄えが同じように評価されたとまでは言えない。また、日本企業が制作に参加した、あるいは日本の技術が採用されたといった情報も、今回の資料にはない。技術の国際的な広がりを論じる際には、作品の迫力から制作体制を推測せず、確認できるクレジットや契約などの裏付けが必要となる。

漫画の映画化は、登場人物の役割をどう変えるか

日本の読者にとって、もう一つ身近な切り口が漫画の実写映画化だ。人気漫画を映画にする際、原作のどの場面を残すかは注目されやすい。本作で見るべきなのは、それに加えて「誰に、どの役割を担わせるか」という再編である。原作に登場するチン・ギハンの役割を、映画ではカンニムが併せて担う構成になっている。

この変更によって、死後の世界を案内する過程と、ジャホンのために弁論する過程が、同じ人物の働きとしてつながる。原作を知らない観客も、ジャホンと三人の使者の関係を軸に話を追いやすい構造だ。これは単に登場人物を減らしたという問題ではない。観客が誰を頼りに世界を理解し、誰の行動を通して裁判の行方を見守るかにかかわる選択である。

もちろん、役割をまとめれば必ず映画として優れるわけではない。原作の人物が持っていた個性や、人物同士のやり取りを重視する読者には、失われたものも見えるだろう。大切なのは、違いがあるというだけで忠実さの点数を付けるのではなく、その変更が映画の進み方をどう変えたかを確かめることだ。日本の漫画原作映画についても、そのまま使える見方である。

本作は、原作の知識がなければ核心に近づけない映画として捉える必要はない。まず映画単体で人物の目的と関係を追い、その後に原作との違いを読む方法もある。実写化を、漫画の代用品でも完全な再現でもなく、別の媒体で物語を組み立て直す作業として見ると、変更の意味を具体的に考えられる。

消防士の責任は、結果だけで決まるのか

ジャホンが消防士であることは、単に勇敢な主人公だと知らせるための肩書ではない。裁判では、同僚の消防士を救えなかったことが問題になる。少女を救った人物でありながら、別の命を救えなかった人物でもある。同じ職場、同じように切迫した状況で生じた行動が、異なる評価を招く。その重なりが、単純な善人と悪人の仕分けを難しくしている。

ここから浮かぶのは、危険な現場で働く人にどこまで責任を求められるのかという問いだ。後から結果を知る者は、その場にいた人より多くの情報を持って判断できることがある。しかし、当人が判断した瞬間には何が見えていたのか。何を選べて、何を選べなかったのか。弁護を必要とする物語の構造は、行動を評価する前に、その条件を確かめる余地をつくる。

日本の読者も、消防や救急、災害対応に携わる人の仕事を考えるとき、こうした問いを身近に感じるだろう。ただ、本作の裁判は現実の法的責任を説明するものではなく、韓国の消防制度の実態を示す資料でもない。特定の現実の事故と安易に重ねるのではなく、職業への敬意と、個人に際限なく自己犠牲を求めることは同じなのか、という倫理的な問題として受け止めたい。

人を救った最後の瞬間だけを見れば英雄であり、救えなかった事実だけを取り出せば責められるかもしれない。だが、そのどちらかだけでは一人の人間を説明しきれない。本作の死後の法廷は、終わった人生に新しい出来事を足すのではなく、すでに起きた出来事の見え方を変えていく。そこに、裁判を重ねる物語としての意味がある。

家族を思う気持ちと、伝わらなかった言葉

ジャホンの人生には、消防士という公の顔だけでなく、母の息子であり、弟キム・スホンの兄であるという側面がある。仕事でどう振る舞ったかを調べるだけでは、彼がどのように生きたかは分からない。家庭で何を背負い、何を語らなかったのかをたどることで、人物像は別の輪郭を持ち始める。

家族を題材にした映画には、親子なら分かり合えるはずだという期待がつきまとう。しかし、近い関係だからこそ言い出せないこともあり、相手のためにしたつもりの行動が、意図したようには届かない場合もある。本作を見る際も、家族への気持ちと実際の行動を同じものとして扱わず、その間にどんな隔たりがあるかを追うと、法廷で明らかになる事柄の意味が変わってくる。

ここで注意したいのは、映画の家族を韓国の家族全体の代表にしないことだ。家族への責任を重く描く作品だからといって、韓国の家庭がすべて同じ価値観で動いているとは言えない。日本の家族映画一本から、日本人全員の親子関係を説明できないのと同じである。文化の違いを知る機会であると同時に、個別の人物の事情を、国民性という大きな言葉で片付けない姿勢も求められる。

母や弟の存在が裁判にどのようにつながり、どんな理解をもたらすのかは、作品の重要な部分になるため、結末には立ち入らない。ただ、死が物語の終点ではなく、十分に説明されなかった思いを聞き直す出発点になっていることは押さえておきたい。生前には間に合わなかった理解を、死後の物語が引き受けるのである。

日本にとっての意味――興行の数字より、比較の視点を

では、この韓国のヒット作は、日本の市場や観客に何を意味するのか。今回の資料には、日本での興行成績、配信の利用状況、ファン層の広がり、日本企業の事業判断を示すデータはない。そのため、韓国で1000万人を集めたことから、日本でも同じ規模の支持があった、あるいは日韓の映画ビジネスを変えたと結論づけることはできない。現在の視聴方法についても、別途確認が必要だ。

一方、日本の観客が作品を読み解くための接点は明確にある。四十九日や閻魔様という文化的に近い入り口、漫画を実写へ置き換える際の工夫、仕事と家族の責任をめぐる葛藤だ。韓国ならではの言葉や設定を理解しながら、日本にもある物語の枠組みと比べられる。海外作品を「異文化だから難しい」と遠ざけず、逆に「日本と同じだ」と違いを消さずに見るための、ちょうどよい比較の対象になる。

日本の映画づくりや原作ビジネスに関心を持つ読者には、映像の規模だけでなく、人物の役割をまとめる脚色にも注目してほしい。大きな原作世界を映画の時間に収めるには、何を削るかだけでなく、観客を誰に同行させるかが重要になる。本作が日本の制作現場へ実際に影響を与えたという証拠はないが、比較して考える事例としての価値はある。韓国での成功を、そのまま日本向けの成功法則と扱わないことが前提だ。

日韓の文化交流という観点でも、まずは作品を具体的に読むことが出発点になる。共通する宗教文化の語彙がありながら、それを現代の娯楽へ組み直す方法は同じとは限らない。親しみやすさと違いをともに見つけることで、人気の数字だけを追うよりも、隣国の映画を身近な比較相手として受け止められる。

技術だけでも、涙だけでもない大衆映画

本作の評価は、映像技術の分野だけにとどまらない。キム・ヨンファ監督は2018年の第54回百想芸術大賞で映画部門の監督賞を受賞し、第9回今年の映画賞では今年の映画人賞を得た。俳優陣では、キム・ドンウクが春史映画祭と黄金撮影賞で助演男優部門の賞を受け、キム・ヒャンギは青龍映画賞で助演女優賞に輝いている。

さらに、第2回ザ・ソウルアワードの映画部門では、ハ・ジョンウが主演男優賞、チュ・ジフンが助演男優賞、イェ・スジョンが助演女優賞を受賞した。賞ごとに選考の仕組みは異なり、受賞数だけで作品の価値が決まるわけではない。それでも、技術、演出、演技の各領域に評価の記録がある以上、「コンピューターグラフィックスの映画」という一言だけでは捉えきれない。

振り返りから見えるのは、漫画を原点に持つ物語が、大規模な実写映像となり、劇場で幅広い観客に届き、さらに祝日のテレビ放送へと観賞の場を広げた道筋だ。本作一本で韓国映画産業全体の変化を証明することはできないが、作品を公開日の出来事ではなく、媒体をまたいで届いていくものとして見る視点は得られる。今後、同種の作品を比較する際にも、動員、原作との関係、映像表現、公開後の流通を分けて確かめたい。

『神と共に』をいま見直すなら、壮大な地獄がどれほど目を引くかに加え、裁判を一つ経るたびに、ジャホンへの見方がどう変わるかに注目したい。人は肩書だけでも、一度の失敗だけでも、最後の善行だけでも言い表せない。1000万人という大きな記録の奥にあるのは、たった一人の人生を、急いで結論づけずに見直す物語である。

Source: Original Korean article - Trendy News Korea

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