韓国の「のど自慢」を国民の舞台にしたソン・ヘ 95年の人生に刻まれた歌と離散

韓国の「のど自慢」を国民の舞台にしたソン・ヘ 95年の人生に刻まれた歌と離散

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世界最高齢の記録だけでは語れない司会者

歌うのは、普段はテレビの向こう側にいる人たち。その緊張を笑いに変え、短い出番を忘れられない時間にする。韓国の長寿番組「全国のど自慢」で、そんな役割を長年担ったのがソン・ヘだ。日本の読者には、NHK「のど自慢」のように、各地の人々の歌と人柄を届ける番組を思い浮かべると、その仕事の輪郭がつかみやすい。ただし、ソン・ヘを単に名物司会者と呼ぶだけでは、韓国社会で親しまれた理由を十分には説明できない。

1927年に生まれ、2022年6月8日に95歳で亡くなるまで、その人生には日本統治期、朝鮮戦争、南北分断、放送制度の再編、そしてテレビ娯楽の変化が重なった。声楽を学んだ青年は、戦争で母と離れ、南へ渡り、歌手と喜劇俳優を経て、全国を巡る司会者になった。華やかな芸能史の一方に、故郷へ帰れない人の歴史があった。

亡くなる直前の2022年5月には、ギネス世界記録で「最高齢のテレビ音楽コンテスト司会者」に認定された。だが、大切なのは95歳という数字だけではない。音楽と笑いを使って、出演者をその日の主役にする。その仕事を長く続けたことに、記録の中身がある。彼を振り返ることは、韓国の大衆文化を、世界で活躍するスターとは別の入り口から見ることでもある。

海の上で生まれた芸名、母との別れ

ソン・ヘの本名はソン・ボクヒ。1927年4月27日、現在の北朝鮮に位置する黄海道載寧郡で生まれた。舞台への第一歩は、1949年に海州芸術専門学校の声楽科へ入学したことだった。このころから公演活動を始めており、後年の軽妙な司会の土台には、まず歌う人としての経験があった。

進路を一変させたのは、1950年6月に始まった朝鮮戦争だ。北朝鮮の人民軍への徴集を避けるため山に身を隠し、3度目の避難の後には家へ戻れなくなった。そのまま南へ向かう米軍の避難船に乗った。母が最後にかけた言葉は、今度は気をつけて、という日常的な気遣いだった。次に帰ってきたときにも会えるはずの親子の会話が、そのまま最後の別れになった。

船から見た海が、芸名「ソン・ヘ」の由来になった。「ヘ」は海を意味する。広い世界を抱こうという思いを込めた名前だが、その出発点には、望んだわけではない旅立ちがある。韓国でいう「離散家族」とは、戦争や分断によって離れ離れになり、行き来や連絡も容易にはできなくなった家族のことだ。ソン・ヘは、その歴史を自分の人生として背負った一人だった。

釜山に着いた後は韓国軍の通信兵となった。1953年7月27日に朝鮮戦争の休戦協定が結ばれた際には、協定に関する通信文をモールス信号で送る任務を担った。戦闘を止める知らせを自ら伝えても、故郷へ帰れるわけではなかった。後年の歌や平壌での舞台を理解するうえで、この「休戦後も終わらない別れ」は欠かせない背景になる。

歌手、喜劇俳優、ラジオの声へ

軍務で大邱の達城公園にいた時期に、先任の上官の妹ソク・オギと出会い、翌年に結婚した。除隊後に選んだのは、再び舞台に立つ道だった。1955年、蒼空楽劇団で歌手として正式にデビューした。楽劇団は歌と芝居を組み合わせた舞台を見せる一座で、日本の歌謡ショーや大衆演劇を連想すると分かりやすい。観客を前に歌い、反応を受け止める現場が、その後の芸を支えた。

1963年には映画「YMS504の水兵」に端役で出演し、1960年代後半からはコメディー番組や放送の司会へと活動を広げた。1970~80年代には、ク・ボンソ、ペ・サムリョン、イ・ジュイル、ナム・ソンナムら喜劇界の顔ぶれと同じ舞台で仕事をした。現在の肩書きなら、歌手、俳優、コメディアン、司会者を横断する芸能人だったと言える。

活動の場は政治によっても変わった。所属していた放送局TBCは、1980年の「言論統廃合」で強制的に閉局され、彼のテレビの仕事はKBS第2テレビへ移った。これは一般的な企業同士の合併とは異なり、当時の政権の下で進められたメディア再編だった。お茶の間の娯楽を担う芸能人も、放送制度を取り巻く大きな変化から無縁ではいられなかった。

一方で、視聴者や聴取者とのつながりは局の枠を越えて続いた。1975年に始まった朝の交通情報番組「街路樹をぬって」は、TBCからKBSラジオソウルへ引き継がれ、1989年までソン・ヘが出演した。歌番組で目立つだけでなく、朝の生活の流れの中で繰り返し声を届ける。後の国民的な親しみやすさは、こうした日々の仕事の積み重ねとしても捉えられる。

息子を失った翌年、全国を巡る仕事に

代表作となった「全国のど自慢」との出会いには、家族を失った深い悲しみがあった。1987年3月、23歳の一人息子がひき逃げ事故で亡くなった。ソン・ヘは喪失感と自責の念に苦しんだ。その彼に番組の演出を担当していたアン・インギ・プロデューサーが声をかけ、全国を回りながら外の空気に触れよう、と仕事へ誘った。

ソン・ヘが初めて司会を務めたのは1988年5月8日だった。各地へ出向き、そこに暮らす人たちと歌を通じて向き合う仕事が始まった。仕事が悲しみを消したと断定することはできない。それでも、身近な家族を失った後に、多くの人と出会う番組が人生の中心になったという順序は、その後の歩みを考えるうえで重い。

司会者としての地位が、最初から最後まで動かなかったわけではない。1994年春の番組改編でキム・ソンドン・アナウンサーに交代したが、視聴者からの抗議や視聴率低下などが続き、約半年後の同年10月に復帰した。この経緯からは、視聴者が番組の形式だけでなく、ソン・ヘと出演者のやり取りも含めて楽しんでいたことがうかがえる。

優れた歌を選ぶだけなら、司会者の役割は曲紹介と進行にとどまるかもしれない。しかし、一般の人が出演する番組では、歌い始める前の言葉や、歌い終えた後の表情にも価値がある。誰が、どんな場所で、どのように暮らしているのか。歌の周囲にある人生を引き出すことで、コンテストは地域の人々を映す番組にもなる。ソン・ヘが長く守ったのは、その余白だったと考えられる。

日本の視聴者にとっての意味――「のど自慢」という共通言語

日本との接点は、番組の似通った性格だけではない。「全国のど自慢」は韓国内に加え、東京都でも公開放送を行った。ほかにロサンゼルス、北京、ニューヨーク、ロンドンなどへ足を延ばしており、韓国の地域を巡る番組が国外にも舞台を広げていたことが分かる。ただし、今回の資料では東京公演の開催時期、出演者の構成、日本での視聴規模などは確認できず、日本市場への商業的な影響までは評価できない。

それでも、日本の読者がソン・ヘの仕事を理解するうえで、NHK「のど自慢」との比較は有効だ。プロ歌手の完成されたステージを見るのとは違い、身近な人がテレビに出て歌い、その人柄ごと楽しむ。地域の名前や暮らしが全国放送に現れる。両番組を同一視することはできず、制作上の系譜をここで論じる根拠もないが、普通の人にスポットライトを当てる楽しみ方には、日韓の視聴者が共有しやすいものがある。

この視点は、日本で韓国文化に接するときの見取り図も広げる。K-POPやドラマから関心を持った人にとって、ソン・ヘの舞台は別の世代、別の生活圏への入り口になる。そこにあるのは、歌唱力や若さだけで測れない魅力だ。年齢を重ねた人の声、土地に結び付いた話、長年聴いてきた歌にも、テレビの主役になる力がある。

日本も、地域番組や長寿番組を誰がどのように担い、世代を越えて届けるかという課題を持つ。ソン・ヘの事例から考えられるのは、名司会者を長く起用することの意義と、一人の技量に支えられた番組文化をどう受け継ぐかという両面だ。日韓の放送局が実際にこの事例を基に何らかの施策を進めたという情報はない。ここでの接点は、番組作りと視聴体験を比較するための材料にある。

海外公演と、特別な意味を持った平壌の舞台

「全国のど自慢」の公開放送は、韓国から飛行機で約27時間かかるという南米パラグアイにも及んだ。国内の屋外会場から遠い異国まで、歌と対話を軸にした進行を持っていく。ソン・ヘの仕事は、スタジオに定住する司会者というより、放送とともに移動する舞台人のそれだった。

その中でも、2003年の「平壌のど自慢」は特別な意味を持つ。北朝鮮側が彼の「越南」の経歴を問題にし、滞在許可を得る過程では困難があった。ここでいう越南とは、北側から南側へ移ったことを指す。日本語で字面だけを見るとベトナムを思い浮かべやすいが、朝鮮半島の分断の歴史に根ざした表現だ。

ソン・ヘは平壌の舞台で、北朝鮮の朝鮮中央テレビのアナウンサー、チョン・ソンヒと共同司会を務めた。最後に「また会いましょう」の合唱が始まると、涙を流した。国外公演を重ねた司会者にとっても、北側で歌を届けることは、単に訪問先が一つ増えることではなかった。

公演後の晩餐で故郷の載寧郡について尋ねると、同席した北朝鮮側の関係者から、長い年月がたち、もうそこにはいないという趣旨の言葉を聞いた。ソン・ヘは後に、それを受けて母との再会はかなわないのだと実感したと振り返った。ただし、このやり取りは彼自身の回想であり、母の消息の詳細を示すものではない。その後も故郷で「全国のど自慢」を開きたいと繰り返し語ったが、願いは実現しなかった。

歌い続けることで残した、もう一つの自伝

司会者として広く知られるようになってからも、歌手の仕事を手放さなかった。韓国の往年の歌謡曲を取り上げる番組「歌謡舞台」に出演し、80歳を超えてからも単独コンサートを開いた。進行役に転じて歌から離れたのではなく、歌うことと、人に歌ってもらうことを並行していた。

2015年に発表した「流浪青春」には、母と離れた経験を歌詞に込めた。2018年にはフルアルバム「タンタラ」を発表した。「タンタラ」は歌手や芸人などの芸能人を指す俗な呼び方で、文脈によっては見下す響きも帯びる言葉だ。その語を自身のアルバム名に掲げたことは、さまざまな舞台を生きてきた経歴と重ねて読むことができる。

往年の楽曲「紅桃よ、泣くな」を歌い直す一方、「朝顔人生」「私の人生ディンドンデン」「故郷へ帰る日まで」といった自身の曲も発表した。「ディンドンデン」は鐘などの音を表す言い方で、歌の審査がある番組の親しみやすい響きにもつながる。曲名には、長年の司会の仕事、故郷への思い、自らの人生を振り返る視線が並ぶ。

これらの活動が示すのは、過去の代表作だけで晩年を過ごした人物ではなかったということだ。高齢になっても公演や録音に取り組み、戦争で始まった離別を新しい歌として残した。経歴を年表にすれば戦争は若いころの出来事になるが、表現の中では数十年後にも現在形であり続けた。

帰れない故郷と、妻の故郷にできた居場所

北にある生まれ故郷へ自由に戻れない一方、南で家族のつながりを深めた場所が、妻の故郷である大邱の達城だった。2010年に同地で「全国のど自慢」が開かれた際、ソン・ヘはキム・ムノ郡守に、妻のことを思いながら時折訪ねていると話した。全国を巡る仕事の訪問先の一つが、私生活の記憶とも結び付いていた。

達城郡は2011年に名誉郡民、2012年に広報大使としてソン・ヘを迎えた。健康を損なう前までは、地元の琵瑟山で開かれる「チャムコッ祭り」の司会を毎年担当した。チャムコッはツツジの仲間であるチンダルレを指し、山を彩る花を楽しむ地域の祭りだ。全国放送の顔でありながら、地域の季節の行事にも立ち続けた。

妻は2018年1月に亡くなった。ソン・ヘ自身は国立墓地への埋葬対象者だったが、遺言に従い、死後は達城郡玉浦邑の妻のそばに葬られた。生まれ故郷で公演をする夢はかなわなかった。それとは別に、妻とつながる土地を最後の居場所に選んだ事実が残る。

90代の現場を変えたコロナ禍

ソン・ヘは90歳を超えても、2010年代を通じて屋外収録に参加した。長寿司会者といっても、決まったスタジオで短い言葉を添えるだけの役回りではない。各地へ移動し、その場で初めて会う出演者とやり取りする仕事だった。最高齢記録を評価する際には、そうした現場の性格にも目を向ける必要がある。

転機となったのが2020年からの新型コロナウイルスの感染拡大だった。現地での収録が止まり、番組はスタジオでの特集を通じて放送を続けた。人が集まり、歌い、反応を交わす番組にとって、会場を使えないことは単なる撮影場所の変更ではない。ソン・ヘの晩年は、地域とテレビを直接つなぐ形式そのものが制約された時期にも重なった。

2022年5月15日が最後のテレビ出演となった。同月23日にギネス世界記録への認定が発表されたが、その月、本人は健康悪化によってこれ以上司会を続けるのは難しいとの意向を制作陣へ伝えていた。そして6月8日、ソウル市江南区道谷洞の自宅で亡くなった。記録の達成と、仕事を続けられないという現実が、ほぼ同じ時期に訪れた。

生前のインタビューでは、舞台で始まった人生を舞台で終えたい、死ぬ日までテレビに出て「全国のど自慢」を進行したいという思いを語っていた。その願いを、高齢者はいつまでも働くべきだという一般論に置き換えるべきではない。彼の場合、歌と笑いの現場が、家族との別れを経験しながら生きてきた人生の軸だった。

追悼の言葉が映した「普通の人を主役にする力」

葬儀では、放送コメディアン協会長として告別式を進めたオム・ヨンスが、ソン・ヘは単に出演者と会話をしていたのではないと振り返った。彼が訪れる舞台は、在来市場にも、大根や白菜の畑にも、花開市場にもなったという。花開市場は韓国の地名を冠した市場で、ここでは人々の暮らしやにぎわいを思わせる場所として語られている。

この追悼は、ソン・ヘの司会術への具体的な評価でもある。舞台上の人を放送用の型にはめるのでなく、その人が暮らす場所の空気を持ち込ませる。オム・ヨンスは、高齢の出演者を青春へと戻し、出演者をスターにする「魔術師」だったとたたえた。もちろん追悼には故人への愛情が込められているが、何が惜しまれたのかは明確だ。番組を滞りなく終える技術以上に、人を輝かせる関わり方だった。

後輩のイ・ヨンシクは、ソン・ヘが通ったクッパ店や、いつも座っていた椅子に触れて別れを告げた。クッパはスープとご飯を合わせて食べる身近な料理で、日本の読者には、行きつけの食堂のいつもの席に残る記憶に近いだろう。追悼で語られたのは遠いスターの豪華な暮らしではなく、街の日常にある姿だった。

棺を運ぶ役には、チェ・ヤンラク、ヤン・サングク、チョ・ムンシク、ユ・ジェソク、カン・ホドンらが加わった。ソウル鍾路区楽園洞の「ソンヘ通り」を経て、KBS本館前でも別れの儀式が行われた。放送局での功績だけでなく、街で積み重ねた時間と、世代を越えた芸能界のつながりが、最後の道のりに表れた。

受け継ぐべきものは、年齢よりも舞台のあり方

公的な評価も重ねられた。2001年に花冠文化勲章、2003年に宝冠文化勲章、2014年に銀冠文化勲章を受章し、死去当日の2022年6月8日には、尹錫悦大統領から文化勲章の最高位に当たる金冠文化勲章が追贈された。芸能分野の表彰でも、2008年の百想芸術大賞功労賞、2016年の韓国PD大賞テレビ司会者部門出演者賞、2020年の韓国放送大賞功労賞などに名を連ねた。

死後の2023年には「KBSを輝かせた50人」に選ばれ、放送通信委員会の放送大賞でも功労賞を受けた。これらは長い活動への評価だが、勲章や受賞歴だけでは、テレビを見ていた人の実感までは伝わらない。それを補うのが、交代後の復帰を望んだ視聴者の反応や、出演者をスターにしたと語る同業者の言葉である。

ソン・ヘの歩みから見えてくる変化は、楽劇団の舞台からラジオ、テレビの地域公開放送へと、歌と笑いの届く範囲が広がったことだ。さらに国外公演や平壌での共同司会へ進んでも、中心には人と人の対面があった。コロナ禍でその条件が失われた晩年まで含めて、一人の芸能人の仕事は、放送がどのように社会と接してきたかを映している。

今後、このような番組を見るときに注目したいのは、司会者の知名度や番組の長さだけではない。初めて舞台に上がる人が、自分の言葉で話せるか。地域ごとの違いや、年齢を重ねた人の経験が、笑いと歌の中に残るか。ソン・ヘが示した価値は、日本の視聴者にも理解できる問いとして続いている。95歳の記録の向こうには、普通の人の数分間を大切にし続けた、長い放送人の人生がある。

Source: Original Korean article - Trendy News Korea

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