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民主主義を、まず人々に伝えるという仕事
政治を変えるには、制度をつくるだけでは足りない。人々が社会の出来事を知り、自分の考えを持ち、それを他者に伝える場所も必要になる。朝鮮王朝末期に新聞を発行し、公開の討論を広げようとした徐載弼(ソ・ジェピル、1864~1951年)の歩みには、そんな近代政治の出発点が見える。若いころには軍事改革に携わり、政変に敗れて亡命した人物が、やがて言論を通じた改革に力を注いだ。
日本の読者には、金玉均(キム・オッキュン)や、朝鮮王朝最後の時期に起きた政治事件ほどには、なじみのない名前かもしれない。しかし、徐載弼が1896年に創刊した『独立新聞』と、同年に設立した独立協会は、朝鮮半島で民主主義や政治参加の権利がどのように紹介されたかを考えるうえで重要な存在である。
その生涯を「独立運動家」という肩書だけで追うと、見落とすものがある。彼は王朝の官僚であり、日本への留学生であり、米国に渡った移民でもあった。米国ではフィリップ・ジェイソンの名で暮らし、医師として働きながら、国外から韓国の独立運動を支えた。国境を越えた経験が、政治に働きかける方法を変えていったのである。
注目したいのは、彼がどの国で何を学んだかだけではない。得た知識を誰に、どのような形で伝えようとしたかだ。宮廷や官僚の内側で進める改革から、新聞を読み、人々が集まって意見を交わす改革へ。その変化をたどると、韓国の近代史は、政変や外交交渉の連続とは違う表情を見せる。
名門の家に生まれ、養子として都へ
徐載弼は1864年1月7日、母方の実家があった全羅道の同福郡で生まれた。現在の韓国南西部、宝城郡にあたる地域である。旧暦では1863年11月28日となる。朝鮮王朝期の人物を調べる際、生年の表記が異なって見える場合には、こうした暦の違いにも注意が必要だ。
父は徐光孝、母は星州李氏の出身だった。韓国の歴史に登場する「星州李氏」「大邱徐氏」といった表現は、姓に加えて一族の由来を示す「本貫」を記したものだ。同じ李姓、徐姓でも、その系統を区別する働きがある。日本の姓や出身地だけでは捉えきれない、親族関係を理解するための手掛かりといえる。
母方は同福や文徳で広い土地を持つ家だった。一方、父方も由緒ある系譜につながっていたが、家計は衰えていたとされる。名門の出身であることと、暮らしに余裕があることは同じではなかった。徐載弼は現在の論山周辺で幼少期を過ごし、7歳で父の親族である徐光夏の養子となった。その後、養父の官職に伴って都の漢城、現在のソウルへ移る。
この養子縁組は、学びの環境を変える契機になった。1872年には、養母の弟で高官だった金声根の家に預けられ、儒教の経典や歴史を学ぶ。日本でも近世の武家などで養子が家の継承を担ったが、徐載弼の場合には、親族を通じた移動が、官僚への道と新たな思想家との出会いの双方につながっていた。
経典の暗唱から、地球儀と科学の本へ
少年時代の学習の中心は、『童蒙先習』や『史記』、四書・六経などだった。これらを読み、暗唱することは、官吏登用試験である科挙への準備でもあった。日本でいえば難関の官僚採用試験を目指す面があるが、現代の試験と大きく違うのは、儒教の古典に関する教養が、統治を担う資格と深く結び付いていた点である。
徐載弼は優れた記憶力を示したという。1879年初めの進士試験には落ちたものの、その春、国王の高宗が主宰する経典の試問で首位となった。指定された部分を繰り返し、滞りなく暗唱したと伝えられ、科挙の最終段階にあたる殿試に直接進む資格を得た。後に改革派となる彼も、出発点では王朝が評価する学問の優等生だった。
転機は、金声根の家を出入りする人々との交流だった。そこで徐光範や金玉均と知り合い、金玉均の紹介で朴泳孝とも親しくなった。さらに朴珪寿、呉慶錫、劉大致らのもとに足を運び、従来の学問の外にある知識に接していく。数学、望遠鏡、地球儀、地図、火薬、時計。世界を測り、位置を把握し、技術で変えるための道具が、学びの視野に入った。
彼が影響を受けた「北学」は、清の文化や技術などを学び、実生活や社会の改善に生かそうとする学問の流れである。ここでいう「北」は、現在の北朝鮮を指さない。また、彼の家系が属した「老論」は王朝内の政治・学問上の党派であり、現代の政党とは性格が異なる。改革思想は、伝統をすべて捨てた場所からではなく、こうした既存の学問や人脈の中から育っていた。
改革派を育てた、寺院という知識の交差点
1882年、徐載弼は18歳で文科の科挙に合格した。ただし、その後すぐに安定した高位の官職を得たわけではない。臨時の任命や交代を重ね、同年6月には経書の印刷や官印の管理を担う校書館の官職に就いた。若い官僚として王朝の行政に入りながら、同時に改革を志す仲間とのつながりを深めていった。
金玉均らがつくった「忠義契」に加わり、この集まりはやがて開化党へと発展する。「開化」とは、新しい知識や制度を取り入れて国を変えようとする考え方だ。ただし、改革派が全員同じ方向を向いていたわけではない。外国との関係をどう築くか、どの速さで制度を改めるかという問題は、政治的な対立と切り離せなかった。
交流の場の一つが、漢城西大門の奉元寺だった。住職の李東仁は日本語を理解し、日本の知識人との付き合いもあった。日本から西洋の文物に関する書籍を取り寄せ、歴史、地理、物理、化学の本や、写真、マッチなどを徐載弼らに紹介した。寺院は信仰の場所であると同時に、国外の情報に接する窓口にもなっていた。
現在なら海外の情報をオンラインで読むところだが、当時は一冊の本を運ぶ人、外国語を読める人、その本を見せてもらえる場所が欠かせなかった。徐載弼らが別の寺へ場所を移してひそかに本を読んだという足跡は、新しい知識への関心と、それを自由に学ぶことの難しさを伝える。改革に先立って、情報を手に入れるための人的なつながりがあった。
日本留学で学んだ言葉と軍事制度
1883年、徐載弼は金玉均の勧めを受け、平民出身の青年14人を率いて日本に渡った。目的は、国防力を高めるための学習だった。同年5月には、現在の慶應義塾大学につながる慶應義塾に入り、日本語を学んだ。数カ月で通訳を介さずに過ごせるほど習得したとされ、日本滞在中の米国人からは基礎的な英語も学んだ。
留学の内容は語学だけではなかった。軍事施設や警察制度を見て回り、翌1884年1月からは戸山の陸軍の教育機関で、銃剣術、教練、爆弾投擲などの新式訓練を受けた。経典の知識によって官職を得た青年が、今度は身体を動かし、組織を動かす技術を身に付けようとしていた。
熱心に訓練に取り組む姿は、1884年2月28日付の日本の『時事新報』でも紹介された。ここには、後に新聞をつくる人物が、その前に日本の新聞で取り上げられていたという接点がある。ただし、新聞掲載という事実だけで、日本社会全体が彼らの改革を理解し、支持していたとまではいえない。
帰国後、徐載弼らは高宗に新式の士官学校を設けるよう求めた。1884年6月、軍事を担う兵曹の下に操練局を置く構想が認められ、徐載弼は士官長を務めることになる。海外で学んだ経験を、国内の教育制度に移そうとする試みだった。しかし、新しい訓練方法の導入は、軍を誰が掌握するかという権力の問題に直結した。
三日で終わった政変と、米国への亡命
操練局による将校養成は長く続かなかった。清と閔妃、後の明成皇后の側の反対で廃止され、閔氏一族が軍の統率を握る中、訓練には清の将校が招かれた。徐載弼は軍の改革の中心から外れ、士官候補生らとともに宮殿の守備隊に組み込まれた。留学で得た技術があっても、それを使う制度と政治的な支持がなければ改革は進まなかった。
1884年、徐載弼は金玉均や洪英植、朴泳孝らによる甲申政変に参加した。「甲申」は、その年を示す干支である。改革派が政権の転換を図ったこの政変は、わずか三日で失敗に終わった。徐載弼は日本を経由して米国へ亡命する。王朝の官僚として進んでいた人生は、20歳の年に大きく断ち切られた。
この時代の朝鮮の改革は、国内の新旧勢力の争いだけでは理解できない。清と日本の関与が重なり、国内の政治構想が周辺国の利害と結び付いていた。外国で新しい制度を学ぶことと、その外国の政治的な力を頼ることは、同じではない。徐載弼の経歴をたどる際にも、学習の交流と国家間の権力関係を分けて見る必要がある。
米国ではフィリップ・ジェイソンという名を用い、1890年6月10日に米国市民権を取得した。韓国人として初めての取得とされる。その後は医師として活動し、病理学や教育、文学にも携わった。亡命は政治活動の単なる中断ではなく、別の社会で職業と生活を築く過程だった。後の言論活動を考えるうえでも、宮廷とは異なる社会を経験した意味は小さくない。
『独立新聞』が変えた、改革の届け先
朝鮮で再び活動する機会が訪れたのは1895年だった。金弘集内閣から中枢院の顧問に招かれ、徐載弼は帰国した。そして1896年4月7日、韓国で最初の民間新聞と位置付けられる『独立新聞』を創刊した。軍事組織の整備に取り組んでいた時代とは異なり、今度は記事を通じて社会に働きかけようとしたのである。
ここで年代を整理しておきたい。徐載弼は大韓帝国期を代表する開化運動家として紹介されるが、大韓帝国の成立は1897年で、『独立新聞』の創刊はその前年、まだ朝鮮王朝の時代だった。また、朝鮮半島が日本の植民地となる1910年よりも前である。「独立」という言葉を、後の日本の植民地支配からの解放という意味だけに重ねると、創刊当時の課題を狭く捉えることになる。
当時問われていたのは、外国との関係の中で国の自主性をどう保ち、国内の統治をどう改めるかだった。新聞の意義も、単に新しい印刷物が登場したということにとどまらない。官僚や改革派の仲間の間で共有していた問題意識を、より広い読者に届けるための媒体を持った点にある。
もっとも、「民間新聞」という呼称から、現代の新聞社と同じ経営や編集上の条件を想定することはできない。今回の資料だけでは、資金の構成や政府との距離、読者の広がりまで判断できないからだ。それでも、王に政策を建言するだけでなく、公に情報や考えを伝える活動へと比重を移したことは、彼の経歴の大きな転換として読み取れる。
独立協会――読む人を、意見を言う人へ
新聞創刊から約3カ月後の1896年7月、徐載弼は独立協会を設立した。協会では討論会や講演会を進め、上疏や集会、示威活動にも取り組んだ。新聞が情報や主張を届ける場だとすれば、協会は人々が集まり、考えを言葉にする場だった。この二つが同じ年に生まれたところに、彼の改革運動の特徴がある。
「上疏」とは、国王に意見を文書で差し出すことだ。韓国の歴史ドラマで、臣下や儒学者が王に訴える場面を思い浮かべると分かりやすい。独立協会の活動では、そうした王朝以来の働きかけと、公開討論や集会という方法が並んでいた。古い政治文化が一瞬で消え、新しい制度に置き換わったのではなかった。
徐載弼が伝えようとした主要なテーマには、民主主義と参政権があった。参政権は、一般には選挙で投票し、代表を選び、あるいは自ら公職に就くことなど、政治に参加する権利を指す。ただし、彼がその重要性を紹介したことと、当時すでに幅広い人々に選挙権が保障されていたことは別である。理念の普及と制度の実現は、区別しなければならない。
公開の場で意見を交わす経験には、制度以前の意味もあった。相手に伝わる理由を示すこと、異なる考えに接すること、共通の課題を探すことは、政治参加を支える営みだからだ。一方、討論会に参加できたのは誰か、どのような意見が届いたのかは、別途検証が必要になる。協会の存在だけで、現代的な民主政治が成立したと評価するのは早計だろう。
日本にとっての意味――慶應との接点から自由民権運動との比較へ
日本の読者にとって、徐載弼の歩みは遠い国の偉人伝ではない。慶應義塾での語学学習、日本の軍事教育機関での訓練、『時事新報』による紹介など、明治期の日本との具体的な接点がある。日本で取り入れられていた制度や知識を、隣国の若者が自国の改革のために学んでいた。その事実は、日本の近代化を国内だけで完結した物語として見る視点を広げる。
比較の手掛かりになるのが、日本の自由民権運動である。国会開設や政治参加を求める動きの中で、新聞、演説会、政治的な結社は重要な役割を果たした。徐載弼の新聞・協会活動にも、情報を共有し、人々が集まり、政治について発言するという共通の要素が見える。選挙制度だけでなく、言論の場所をつくることが近代政治の形成に関わったのである。
ただし、この類似から、独立協会が日本の自由民権運動をそのまま移したと断定することはできない。今回の資料には、それを裏付ける直接の証拠はない。徐載弼には米国での生活経験もあり、朝鮮には固有の政治事情があった。日本の運動を「手本」、韓国の運動をその「後追い」とする見方では、それぞれが直面した課題の違いを捉え損ねる。
また、日本が学習の場となったことをもって、当時の日朝関係を友好的な交流だけで語ることもできない。日本との接触は、知識の移動と政治的な介入が交差する中で進んだ。その後の植民地支配という歴史も踏まえ、個人の交流と国家の行動を混同しないことが大切だ。徐載弼の留学歴は、日韓の関係を一色に塗る材料ではなく、その複雑さを知る入口になる。
この人物紹介から、現在の日本市場への直接的な影響や、企業・観光客の新たな動きを読み取る根拠はない。日本にとっての意義は、むしろ歴史理解にある。韓国社会の政治参加や言論を考える際、現代の出来事だけで判断せず、19世紀末から積み重ねられた試みへ目を向ける。そのための具体的な人物として、徐載弼は知っておきたい存在だ。
二つの名前で生きた人物が残した問い
徐載弼は海外留学の重要性も訴えた。自身が日本で言語と軍事を学び、米国では別の職業と生活を築いた経験を考えれば、国外に出て制度や社会を直接見ることを重視した理由は理解しやすい。彼の生涯では、移動は単なる経歴の飾りではなく、行動の選択肢を変える経験だった。
一方で、外国の仕組みを知るだけでは国内改革は実現しなかった。士官養成の試みは政治的な反対で止まり、政変は失敗した。その後、新聞と協会を通じて知識を伝える活動へ進んだという経過は、改革には技術や制度の設計だけでなく、それを理解し、論じる社会的な基盤が必要だという問いを投げかける。ただし、軍事改革の失敗から言論活動への移行を、本人が初めから描いていた一直線の計画として読むべきではない。
米国では医師として生き、国外から韓国の独立運動を支えたという後半生も、一つの国の中だけでは捉えられない。朝鮮の官僚だった徐載弼と、米国市民のフィリップ・ジェイソンは同じ人物である。国籍や居住地が変わっても、出身社会への関わりが終わるとは限らない。その姿は、海外に暮らす人々が故郷の政治や社会を支えるという、現代にも通じる問題を考えさせる。
彼の業績をさらに確かめるには、創刊や設立の年月日だけでなく、新聞が実際に何を伝え、誰に読まれたのか、協会では誰が発言し、その声がどこまで政治に届いたのかを追う必要がある。改革を唱えた人物の意図と、受け手の行動を結ぶ作業が、英雄像を越えた歴史理解につながる。
徐載弼の歩みから浮かぶのは、民主主義が制度の名称を覚えるだけでは根付かないということだ。知らせる媒体があり、集まって話す場所があり、自分も政治について意見を言ってよいという認識が育つ。『独立新聞』と独立協会は、その過程を考えるための重要な足跡である。日本で学んだ一人の青年が、やがて隣国で「読む政治」と「話す政治」を広げようとした歴史は、日本の読者にも、政治参加を支える言論の役割を問い直している。
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