僧侶から武将へ、蒙古軍を二度退けた高麗の英雄・金允侯

僧侶から武将へ、蒙古軍を二度退けた高麗の英雄・金允侯

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処仁城で蒙古軍の将軍を討つ

高麗後期に活躍した金允侯(キム・ユンフ)は、僧侶から武将に転じ、蒙古軍との戦いで大きな功績を残した人物だ。生没年や家系については詳しく分かっていない。若くして出家し、現在の京畿道平沢市にあった白峴院で暮らしていた。

1232年、蒙古軍が高麗へ侵攻すると、金允侯は現在の京畿道龍仁市に位置する処仁城へ避難した。ここで弓を放ち、蒙古軍の将軍サリタイを討ち取ったとされる。戦いは高麗側の勝利に終わり、処仁部曲は一般の郡県へ昇格した。

朝廷は戦功を認め、金允侯を正三品の上将軍に任命しようとしたが、本人はこれを辞退し、従六品の摂郎将に就いた。朝鮮後期の学者、安鼎福や丁若鏞は、白峴院の僧侶が処仁城の勝利を機に武官となって還俗し、対蒙古抗戦の前線に立ったと評価している。

70日余り持ちこたえた忠州城

1253年、金允侯は忠州山城の防護別監として再び蒙古軍を迎え撃った。包囲と攻撃は70日余りに及び、城内の兵糧も底を突きかけていた。

金允侯は疲弊した兵士らに、身分の貴賤を問わず、力を尽くして戦った者には官職を与えると約束した。さらに官奴の身分を示す文書を焼き、敵から得た牛や馬を人々に分けた。これに奮い立った軍民は命懸けで戦い、蒙古軍を退けた。中央から派遣された官吏と一般の民衆がともに抗戦した代表的な事例として伝えられている。

戦後、金允侯は正三品の監門衛上将軍となった。戦功を立てた人々にも身分に応じた褒賞が与えられ、官奴や白丁も官職を得た。忠州は翌1254年、国原京へ昇格した。

武官として歩んだ晩年

金允侯は1258年に正三品の東北面兵馬使へ任命されたが、東北面がすでに蒙古軍の支配下にあったため赴任できなかった。その後、1262年に枢密院副使・礼部尚書、1263年には正二品の守司空・右僕射に昇進し、官職を退いた。

身分を越えた抗戦の象徴

朝鮮時代に金允侯の名が頻繁に取り上げられたわけではないが、その評価はおおむね好意的だった。英祖の時代には適切な人材登用の重要性を説く際の事例となり、文禄・慶長の役にあたる壬辰倭乱で趙憲が義兵を挙げた際にも、その名が言及された。

僧侶出身の武将が身分を越えて軍民をまとめ、二度にわたり蒙古軍を退けた生涯は、2012年に韓国MBCで放送されたドラマ「武神」でも描かれ、俳優パク・ヘスが金允侯を演じた。

Source: Original Korean article - Trendy News Korea

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