「開国」への抵抗は、なぜ抗日運動になったのか 崔益鉉の生涯から読む日韓近代史

「開国」への抵抗は、なぜ抗日運動になったのか 崔益鉉の生涯から読む日韓近代史

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日本の「近代化」の隣で、何が失われたのか

日本では幕末から明治にかけての歴史を、開国し、新しい制度や産業を取り入れ、近代国家へ歩み出した物語として学ぶことが多い。では、その日本から開国を迫られた朝鮮では、同じ時代はどう見えていたのか。朝鮮王朝末期から大韓帝国期に活動した官僚、崔益鉉(チェ・イクヒョン)の生涯は、その問いを考える手がかりになる。

崔益鉉は、1905年に日本の圧力の下で結ばれ、大韓帝国の外交権を奪った第二次日韓協約に抵抗した義兵指導者として知られる。韓国ではこの協約を、その年の干支と強制性を示す言葉を組み合わせて「乙巳勒約(ウルサヌギャク)」と呼ぶ。義兵とは、国家の正規軍とは別に、国や地域を守る大義を掲げて立ち上がった人々の武装集団を指す。崔益鉉の官僚としての歩みは、最終的に対馬への流刑に行き着いた。

ただし、初めから今日的な意味での民族独立だけを目指していた人物、と捉えると実像を見失う。君主への忠誠、儒教的な秩序の維持、開国と西洋文明への警戒、そして日本の侵略への抵抗。その複数の要素が重なっていた。権力に屈しない人物である一方、自らが正統と考える学問や政治集団の外側には厳しい目を向けた。英雄像だけでも、近代化に反対した守旧派という評価だけでも収まらない歴史が、そこにある。

貧しい少年が学んだ「国を家のように案じる」思想

崔益鉉は1834年1月14日、現在の韓国・京畿道の抱川に生まれた。旧暦では1833年12月5日に当たる。朝鮮時代の人物を調べる際、生年が西暦換算と旧暦表記で異なって見えることがあるが、彼もその一例だ。家計は豊かではなく、幼いころから一家は各地を移り住んだ。後に高官となるものの、出発点に安定した暮らしがあったわけではない。

転機となったのは、父の意向で、数え年14歳のころに儒学者の李恒老(イ・ハンノ)の門下に入ったことだった。学んだのは『撃蒙要訣』や『大学章句』『論語集注』など。学問の基礎だけでなく、政治と社会を何によって支えるのかという考え方も身につけた。師が説いた「愛君如父、憂国如家」は、君主を父のように敬い、国を自分の家のように案じるという意味である。

その思想の土台となった性理学は、日本で一般にいう朱子学に通じる。江戸時代の武士の教育にも大きな影響を与えた学問だが、朝鮮では官僚の選抜や政治の正当性、家族秩序と深く結びついていた。崔益鉉にとって、学問とは書物の知識を蓄えるだけのものではない。政治が道を外れたときに、身を危険にさらしてでも正すための基準だった。

師から与えられた号が「勉菴(ミョナム)」である。号は、日本の文人や儒者にも見られる、学問・文芸上の別名に近い。韓国で崔益鉉を「勉菴先生」と呼ぶ場合、この名を使っている。門下では後の同志となる柳麟錫(ユ・インソク)や金平黙(キム・ピョンムク)とも出会った。国を救い、正しい道を守るという理念は、こうした師弟関係と学問のつながりの中で育まれた。

官僚の仕事は、君主に異議を申し立てることでもあった

1855年、崔益鉉は経典の理解を競う試験で優秀な成績を収め、科挙に合格して官僚の道に進んだ。科挙は、儒教の知識や文章力などを通じて官僚を選ぶ制度である。日本の読者には、国家公務員試験に相当する機能を持ちながら、学問上の権威や家の社会的地位とも強く結びついた仕組み、と考えると分かりやすい。

彼は中央官庁や地方の役所を歴任し、官僚の不正をただす職務にも就いた。朝鮮王朝には、役人を監察したり、君主の判断に意見を述べたりする機関があった。こうした役割を担う官僚は「言官」と呼ばれる。王を敬うことと、王や有力者の政策を批判することは、必ずしも矛盾しなかった。むしろ誤りを指摘することこそ忠義だ、という論理が成り立ったのである。

崔益鉉の政治活動を象徴する「上疏」も、この仕組みの中に位置づけられる。君主に差し出す意見書であり、単なる陳情にとどまらず、政策や人事、権力のあり方を公然と問い直す手段だった。日本史に出てくる建白書に近い面もあるが、朝鮮では儒教的な政治秩序を支える制度的な行為でもあった。彼は生涯を通じて、この文章による異議申し立てを繰り返した。

やがて武装抵抗に向かう人物の前半生に、これほど多くの上疏が並ぶことは重要だ。彼の出発点は、王朝の外から体制を倒すことではなかった。王朝を正し、その正統性を守ることだったのである。後年の義兵活動も、その考えから完全に離れたものではなく、国を守る義務を別の形で実行しようとした行動として読むことができる。

景福宮再建を批判した、民の暮らしへの視線

崔益鉉が厳しく批判した相手の一人が、国王・高宗の父で実権を握った興宣大院君である。ただ、両者が最初から敵対していたわけではない。有力な一族が政治を左右する状況に反対していた崔益鉉は、当初、大院君の登場と改革を支持した。その後の対立には、政策への異論に加え、大院君が崔益鉉の属する政治・学問勢力を抑えようとしたことも関わっていた。

現在、ソウルの観光名所として日本人旅行者にも親しまれている景福宮。その大規模な再建は、当時、王権の威信を取り戻すための事業だった。崔益鉉が1868年の上疏で問題にしたのは、壮麗な宮殿を造る理念だけではない。工事に費やされる資金と資材、動員された人々の生活、そして事業を支えるための通貨政策が生んだ負担だった。

特に批判したのが、高額面の銅銭「当百銭」の発行である。従来の銭に比べて大きな額面を持つ貨幣の発行は物価の上昇を招き、財政と暮らしを混乱させた。崔益鉉は、国家の威信を示す建設事業の陰で、民が生計を立てられなくなることを問うた。現代の公共事業と同一視はできないが、国家的な大型事業の費用を結局誰が負うのかという論点は、日本の読者にも理解しやすい。

一方で、彼の批判をそのまま現代的な民衆主義と捉えるのは早計だ。儒教の教育や祭祀を担う「書院」の整理には強く反対し、既存の学問的秩序を守ろうとした。民の負担に敏感な姿勢と、伝統的な権威を維持する姿勢は、彼の中で共存していた。改革に賛成か反対かという一本の物差しでは、その政治姿勢を測りにくい。

権力交代を促した上疏と、味方にも向けた批判

1873年、崔益鉉の上疏は政権のあり方を揺さぶった。高宗はすでに成人しており、父の大院君が政治を主導し続ける理由はないと主張したのである。高宗の妃で、後に明成皇后と呼ばれる閔妃の側も、大院君を退けようとしていた。このため崔益鉉の主張は、高宗と閔氏一族に支持され、大院君の約10年にわたる実権掌握が終わる契機となった。

ここで問われたのは、単純な改革派と保守派の対立ではない。国王の父が持つ権威と、国王本人の統治権がぶつかった。君主を敬い、父を敬うという儒教の原則が、政治の現場で緊張関係に置かれたのである。崔益鉉の行動に対しては、王とその父の間を引き裂くものだという非難も上がった。

新たな権力配置の中で登用された後も、崔益鉉は批判をやめなかった。大臣たちの仕事ぶりを非難し、さらに閔氏一族の過ちにも言及した。自らの上疏を支持した側に対しても、沈黙しなかったわけだ。だが、その強硬な言動は今度は処罰につながる。同年、取り調べを受けた後、済州島へ流された。

このとき科されたのは「囲籬安置」という流刑だった。住まいの周囲を柵で囲み、行動を制限する刑罰である。流刑と聞くと遠隔地への移住だけを想像しがちだが、自由に暮らせるわけではなかった。現在は観光地として知られる済州島にも、王朝時代には政治犯らが送られた場所という歴史がある。

ただし、権力者を恐れず批判したからといって、異なる立場に寛容だったわけではない。崔益鉉は、自らの属する老論という政治・学問勢力と対立した人物たちの名誉回復に、強く反対した。上疏によって、その復権を求める側の厳罰まで主張している。信念の強さは、別の角度から見れば、自分たちの正統性を絶対視する排他性とも結びついていた。

斧を携えた開国反対、その背景にあったもの

日本との関係が前面に出るのは、1876年の日朝修好条規、いわゆる江華島条約をめぐる対立である。日本の軍事的圧力を背景に結ばれたこの条約は、朝鮮の港を開き、日本側に有利な権利を認める不平等条約だった。日本が欧米列強との不平等条約に苦しみ、その改正を目指していた時代に、朝鮮に対しては不平等な関係を持ち込んだという点は、日韓の近代史を一緒に読むうえで見逃せない。

崔益鉉は、斧を携えて王宮の正門である光化門に赴き、開国に反対する上疏を提出した。通商を進めるなら先に自分の首をはねよ、という覚悟を示す行為だった。そこで挙げたのが、開国を認められない五つの理由である。日本の圧力だけでなく、交渉を進める朝鮮政府の方針にも正面から異議を唱えた。

この行動を支えたのが「衛正斥邪(ウィジョンチョクサ)」という思想だった。正しい教えを守り、それに反するものを退けるという意味で、崔益鉉にとっての「正」は性理学を中心とする秩序である。外国から軍事的に攻められることだけでなく、異質な思想や生活様式が入り込み、社会の価値観が崩れることも脅威と捉えていた。

開国反対の上疏は受け入れられず、崔益鉉は南西部沖合の黒山島へ流された。1879年に釈放されてからも、通商拡大と外勢の進出に反対し続けた。外国資本の進出や交易の変化が農村経済を圧迫し、政治的・軍事的な介入も強まる中で、彼の警戒には現実の裏づけが生まれていった。

もっとも、そこから「開国に反対した判断はすべて正しかった」と結論づけることもできない。彼は西洋の文物そのものを社会の堕落につながると見なし、新制度の導入にも強く反発した。外国の支配を拒むことと、外から学ぶことを拒むことは、本来は別の問題である。崔益鉉の思想では、その境界が必ずしも分けられていなかった。

日本にとっての意味――「尊王攘夷」と比較して見える違い

日本の読者にとって、崔益鉉の考えを理解する身近な参照点は、幕末の「尊王攘夷」だろう。君主を尊び、外から来る脅威を退けるという言葉は共通する。しかし、同じ漢字の理念だからといって、同じ政治運動ではない。日本では幕府と朝廷の関係が争点となったのに対し、崔益鉉は朝鮮王朝の君主と儒教的秩序を守ることを出発点にした。

さらに重要なのは、その後の国家の立場の違いだ。日本は明治維新後、欧米の制度や技術を取り入れて国力を拡大し、朝鮮に圧力を加える側へ移っていった。朝鮮では、外国への対応が国内の改革と主権の維持に直結した。開国を近代化の入口としてだけ語る日本側の歴史理解では、その入口が隣国にとって軍事的圧力と不平等な条件を伴っていたことが見えにくくなる。

断髪をめぐる比較にも注意が必要だ。日本の文明開化を語る際には、ちょんまげを落とすことが新時代の象徴として登場する。だが朝鮮での断髪令への抵抗は、単に髪形を変えたくないという話ではない。身体や髪を親から受け継いだものとして大切にする儒教的な価値観に加え、外部の影響が強まる中で、生活と身体にまで国家が介入することへの反発があった。日本の「散切り頭」の物語を、そのまま当てはめることはできない。

そして、崔益鉉の流刑先は対馬だった。日本から見れば朝鮮半島との交流の窓口でもある島が、韓国の抗日運動家の生涯では自由を奪われる場所として現れる。同じ土地に、交流の記憶と支配の記憶が重なるのである。今回の人物紹介から、現在の日本市場や企業活動への具体的な影響を読み取ることはできない。それでも、日本の読者が韓国の歴史認識を理解するうえで、隣国との接点を一つの意味だけに固定しないことは重要だ。

髪を切る命令が、なぜ義兵の問題につながったのか

1894年以降、朝鮮では甲午改革などを通じて制度の大幅な見直しが進んだ。崔益鉉は、その過程に外国の内政干渉があることを批判した。改革の中身が新しいか古いかだけでなく、誰の力によって決定されているのかが問題だった。外国への従属を深めながら行う改革を、国を強くする取り組みとして受け入れることはできなかったのである。

その一方で、彼の抵抗には既存の身分的・思想的秩序を守ろうとする性格もあった。1894年の東学農民運動に対しても強く反発している。東学は朝鮮で生まれた宗教・思想であり、その信仰と結びついた農民の蜂起は、政治や社会のあり方を問い直す動きでもあった。外国の介入に反対する人々が、国内の社会変革についても一致していたわけではないことが分かる。

続く断髪令への反発は、改革が人々の身体や日々の習慣に直接及んだことを示す。崔益鉉は、服制や髪形を含む秩序の変更にも異議を申し立てた。儒教的な規範を守ることと、外勢によって国のあり方を変えられるのを拒むことが、ここでも結びついた。

改革への反発から各地で義兵が起こると、高宗は崔益鉉に解散を説得する役割を与えた。ところが彼は、義兵を忠誠と義によって立ち上がった民と位置づけ、抑え込むべき対象とは見なさなかった。王命を受けた官僚でありながら、武装した人々の正当性を王に訴えたのである。1895年、閔妃が殺害された乙未事変の後にも、義兵解散の説得には応じなかった。

この姿勢は、彼にとって忠義が単なる命令への服従ではなかったことを示している。君主や国を守るために立ち上がった人々を、政府の都合で解散させることはできない。国家の命令と、国家を守るための道義が食い違ったとき、彼は後者を優先した。その論理が、後の抗日義兵活動へつながっていく。

1905年、思想上の警戒は主権喪失への抵抗になった

1905年の第二次日韓協約は、崔益鉉の生涯を理解するうえで大きな節目となる。大韓帝国が外交権を失ったことで、外国の影響をどこまで受け入れるかという問題は、国家として自ら対外関係を決められるのかという、主権そのものの問題になった。開国期から外勢の進出に反対してきた彼にとって、危機はもはや予測や理念の領域にとどまらなかった。

韓国側で使われる「勒約」という表現には、強制された取り決めであり、対等な合意として受け止めることはできないという認識が込められている。日本で使われる協約名だけを見ていると、こうした歴史的な評価は伝わりにくい。呼称の違いは、同じ出来事にどのような経験と意味を読み込むかの違いでもある。

崔益鉉は、この協約に反対する代表的な義兵指導者の一人となった。ここに至る流れは、一人の儒学者が突然、武装闘争へ転じたという話ではない。上疏によって政治を正そうとし、流刑を受けても異議申し立てを続け、義兵の行動を道義的に認めてきた。その延長に、自ら国を守るための抵抗を担う選択があった。

ただし、今回提供された韓国記事の本文要約は、1895年末に関する記述の途中で途切れている。冒頭では1905年の協約への抵抗、義兵指導者としての位置づけ、対馬への流刑が示されているが、蜂起の具体的な経過や拘束、最期の詳細までは確認できない。したがって、兵力の規模や戦闘の場面、流刑先での言葉などを補って描くことは避ける。人物の生涯を劇的に語ることと、史料で確かめられる範囲を守ることは、分けて考える必要がある。

英雄か守旧派か、その二択では読み解けない

崔益鉉の生涯には、一見すると矛盾するような姿が並ぶ。民の暮らしを圧迫する宮殿工事を批判しながら、伝統的な学問秩序の解体には反対した。有力者の不正に物おじせず異議を唱えながら、政治・思想上の異論には厳しかった。外国の侵略を拒んだ一方、西洋文明の導入や国内の農民運動にも反発した。

それらを「時代の限界」の一言で片づければ、なぜ彼の思想が人々を動かしたのかが分からなくなる。逆に、抗日運動家という評価だけを前面に出せば、彼がどのような社会を守ろうとしていたのかが見えなくなる。守ろうとしたのは、今日の民主国家と同じ姿の国ではなく、君主と儒教的な道義を中心に成り立つ国だった。

歴史の流れとして注目すべきなのは、朝鮮の伝統秩序を守る思想が、外国の圧力が強まるにつれて主権を守る抵抗の論理にもなっていったことだ。思想の土台がすべて変わったわけではない。置かれた状況が変わることで、同じ忠義や正統の言葉が、権力批判、開国反対、抗日義兵という異なる行動を支えた。

日本の読者に求められるのも、近代化に賛成したか反対したかだけで隣国の人物を評価しない視点だろう。新しい制度を導入することと、外から支配されることは同じではない。伝統を守ろうとする思想の中に、外国の支配を拒む根拠が生まれることもある。崔益鉉の歩みは、日本が近代国家になっていく物語の隣に、朝鮮が自らの国をどう守ろうとしたかという、もう一つの歴史があったことを教えている。

Source: Original Korean article - Trendy News Korea

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