韓国の地図の先駆者・金正浩とは 「大東輿地図」を支えた知の蓄積と、日本にも関わる伝説の検証

韓国の地図の先駆者・金正浩とは 「大東輿地図」を支えた知の蓄積と、日本にも関わる伝説の検証

記事の理解を助けるための画像

伊能忠敬を思い浮かべた、その先に

国土の姿を一枚の地図にまとめる。その仕事を成し遂げた人物といえば、日本では伊能忠敬を思い浮かべる人が多いだろう。韓国で朝鮮時代の地図製作を語る際、欠かせないのが金正浩(キム・ジョンホ)である。代表作は1861年に刊行された「大東輿地図」。日本では幕末に当たる時代、朝鮮半島の地理情報を集め、整理した人物だ。

ただし、二人を同じような「全国を歩いて正確な地図を作った偉人」として理解すると、金正浩の仕事の核心を見失いかねない。彼には朝鮮全土を自ら踏破したという物語がある一方、既存の地図や地理書を広く集め、比較、検討して成果をまとめたことを重視する研究もある。その価値は、どれほど長い距離を歩いたかだけでは測れない。

金正浩が手がけたのは、地図だけではなかった。地域の制度や施設、歴史などを文章で記す「地誌」の編纂にも取り組んだ。山や川、道の位置を示す情報と、そこで人々がどのように暮らし、国がどのように運営されているかを伝える情報。その両方を整えることが、彼の生涯を通じた課題だった。

その人物像には、今も不明な点が少なくない。全国踏破の物語だけでなく、権力者に投獄されて命を落としたという話も、史料に照らして問い直されている。完成した地図を称賛するだけでなく、その制作を支えた知識の蓄積と、後世に形作られた物語を分けて見る。そこから、日本の読者にも身近な地図の歴史が見えてくる。

生涯に残る空白と、漢陽での暮らし

金正浩は1804年ごろ、黄海道の兎山郡で生まれたとされる。黄海道は現在の北朝鮮側に位置する地域だ。生年を「ごろ」とせざるを得ないのは、彼の生涯を確定できる資料が十分には残っていないためである。代表作の知名度に比べ、個人としての足跡には大きな空白がある。

家計は貧しかったと伝えられる。一方で、地図製作や地誌編纂に必要な知識を備えていたことから、経済的に没落した両班の家系、あるいは中人の出身ではないかと推定されている。両班は朝鮮王朝の支配層を構成した身分で、中人は専門的な技術や実務を担った人々などを含む身分層を指す。日本の武士や町人と単純に置き換えられる制度ではない。

彼の号は「古山子(コサンジャ)」。日本の文人や絵師の雅号に近いものと考えると分かりやすい。また、金氏の本貫は清道とされる。本貫とは、同じ姓の中でも祖先の出身地などによって系統を区別する仕組みであり、本人が生まれた場所と必ずしも一致しない。金正浩が黄海道生まれでありながら清道金氏とされるのは、そのためだ。

いつ首都の漢陽、現在のソウルへ移ったかは分かっていない。知人の証言では南大門の外側にある万里峠で暮らしたとされ、1925年10月9日付の東亜日報には、薬峴に残っていた旧居跡に記念碑を建てようとした話が載っている。南大門外の孔徳里も居住地として挙げられるが、これらは互いに近い場所である。

居住地の表記には混乱もある。「西大門の外の孔徳里」という説については、「南大門の外」を誤って説明したものと考えられている。地図を作った人物の暮らしをたどるにも、地名の位置関係と記録の表現を一つずつ確かめる必要がある。後世の伝記を、そのまま確定した事実として扱えない一例だ。

「大東輿地図」は突然生まれた傑作ではない

金正浩と交流した学者、崔漢綺(チェ・ハンギ)が「青邱図」に寄せた文章によると、金正浩は18歳か19歳ほどと推定される年齢から、地図と地誌に関心を持っていたという。ただし、これは地理への関心を示す記録であり、その時点からどのような調査を行ったかまで具体的に分かるわけではない。

最初の重要な節目は1834年である。金正浩は地誌「東輿図志」を初めて編纂し、それに付随する地図に当たる「青邱図」を刊行した。地図と地誌を組み合わせる仕事の進め方は、この段階ですでにはっきりしていた。地形を描くことと、地域について記述することは、彼にとって別々の仕事ではなかった。

その後、1851年ごろから1856年にかけて「輿図備志」を編纂し、1856年ごろから1861年にかけては「東輿図」をまとめた。そして1861年、先行する「青邱図」と「東輿図」を補い、代表作の「大東輿地図」に結実させた。「青邱図」から数えるだけでも27年。その間の成果を抜きにして、最後の一作だけを理解することは難しい。

「大東輿地図」の刊行後も作業は続いた。既存の地誌「新增東国輿地勝覧」の誤りを正し、抜けている内容を補うため、32巻15冊の「大東地志」を編纂した。巻は内容上の区分、冊は本のまとまりを示すため、32巻と15冊は矛盾する数字ではない。完成時期には1864年とする説がある一方、1866年まで作業を続けたとも伝えられる。

「青邱図」「東輿図」「大東輿地図」と、「東輿図志」「輿図備志」「大東地志」は、金正浩の「三大地図と三大地誌」と呼ばれる。著名な一枚を生んだ人物というより、複数の成果を通じて地理情報を更新し続けた編纂者だったと捉える方が、その仕事の広がりを理解しやすい。

地図と地誌――位置と地域の中身を一緒に読む

地誌という言葉は、現代の日本では日常的に使われるとは限らない。身近な例を挙げれば、自治体史や地域の地理資料に見られるような、土地の特徴、歴史、施設、制度などを文章でまとめた記録に近い。ただし金正浩の場合、単に地域の昔話を保存するためではなく、国の実務に役立てるという目的が強く打ち出されていた。

「東輿図志」の序文で、彼は地図によって天下の形勢を把握し、地誌によって歴代の制度や文物を知ることができると考えた。両者は「治国の大経」、すなわち国を治めるうえでの大きな原則に関わるものだった。地理とは地形の知識にとどまらず、社会を運営するための基礎でもあったのである。

この発想を具体的に示すのが、42に及ぶ項目立てだ。国防施設である「関防」、交通や公的な連絡を支えた「駅站」、教育施設の学校や書院などを詳しく説明、あるいは表示した。駅站は鉄道駅ではなく、人や馬などを介して移動や連絡をつなぐ拠点で、日本の宿駅制度を思い浮かべると役割をつかみやすい。

書院は、儒学を学び、先人をまつる役割などを担った民間の教育施設である。現在の学校と同じものではなく、地域の知識人や社会秩序との結び付きもあった。地誌にこうした施設を記すことは、その地域の教育や文化を担う場所を把握することにもつながった。

現代の読者なら、画面上の地図に交通、公共施設、土地利用などの情報を重ねる仕組みを想像してもよい。もちろん、19世紀の編纂物とデジタル地図は技術も用途も異なる。それでも、場所の位置だけでは十分ではなく、その場所に何があり、どんな役割を持つかまで整理して初めて役立つ、という考え方には共通するものがある。

古い記録と現実のずれを埋める

金正浩の仕事を動かしたのは、すでに存在する権威ある地理書への敬意だけではなかった。古い記録が、そのままでは現在の役に立たなくなるという問題意識である。彼は朝鮮初期の「東国輿地勝覧」によって地理の記録が充実したと考える一方、自分の時代には300年余りが過ぎ、実際の地理情報との隔たりが大きくなったと判断した。

「東輿図志」は、その隔たりを修正するための仕事だった。項目や構成は「東国輿地勝覧」に似ていたが、既存の枠組みを引き継ぐことと、内容を無批判に写すことは同じではない。前の時代の成果を基礎にしながら、誤りを直し、不足を埋める。金正浩の一連の編纂を貫いているのは、この更新の姿勢である。

彼はまた、地図と地誌の歴史を自分なりに整理した。「東輿図志」の序文では、檀君と箕子以来、地図がなく、地誌は「三国史記」に至って初めて作られたと認識していた。その考えから、地誌の冒頭に新羅より前の時代の事項を置いた。檀君や箕子は朝鮮の古代史認識や伝承に関わる存在であり、ここで示されるのは金正浩自身の歴史観だ。

この点でも、彼が述べたことと、今日の歴史研究が確認することは区別しなければならない。金正浩がどのように過去を理解していたかは、作品の構成を読み解く手がかりになる。しかし、その認識自体を現代の確定した通史として扱うことはできない。地理書は土地の情報を伝えると同時に、編纂者の時代意識も映している。

全国踏破の英雄像から、収集と検証の仕事へ

金正浩は全国をくまなく歩いて地図を作った――。よく知られるこの説明に対し、既存資料の収集と研究を重視する立場から異論が出されてきた。問題は、彼が一度も現地へ出なかったかどうかではない。全国を自分で踏破したことを地図製作の前提にしてよいのか、その説明を裏付ける根拠があるのかという点だ。

参照したとされる資料には、官庁が作った「官撰地図」と、有力な家に伝わる「家蔵地図」がある。家蔵地図には、所有する山林や農地などが描かれ、その正確さは官撰地図に劣らなかったとされる。行政の仕事や土地の管理から生まれた情報が、地域社会に蓄積されていたのである。

人物の逸話を集めた柳在建の「里郷見聞録」は、金正浩について、地理学を好み、深く考察して広く収集したという趣旨の記述を残している。そこに表れているのは、旅をする人物だけでなく、多くの情報を集めて読み解く研究者の姿だ。伝記的な物語の印象よりも、同時代に近い記録が何を述べているかが重要になる。

金正浩だけが特別な方法を取ったわけでもない。鄭尚驥、崔漢綺、申櫶らも、全国を踏破するのではなく、既存の地図を幅広く集めてまとめた。比較例には、フランス国外へ出ずに、当時として高精度の世界地図を作った地図製作者ダンヴィルも挙げられる。地図の価値は、製作者自身が訪ねた場所の数と必ずしも比例しない。

韓国の歴史学研究所による「教室の外の国史旅行」も、朝鮮の中央政府が行政の便宜のために数多くの地図や地誌を作っていたことを踏まえ、金正浩による文献研究の役割を論じている。この見方は、彼の功績を小さくするものではない。分散した情報を集め、相互の関係を整理し、一つの成果にする能力を評価し直すものだ。

日本にとっての意味――伊能忠敬との比較と、植民地期教材の責任

日本の読者にとって、金正浩を知る入口に伊能忠敬を置くことは有効だ。ただし、伊能の名と強く結び付いた実測の印象を、そのまま金正浩に重ねるべきではない。地図は、現地で測る人だけでなく、各地の記録を残す人、それを保管する人、比較してまとめる人の仕事によっても成り立つ。二人の比較は優劣を決めるためではなく、地理情報が生まれる異なる過程を考えるために役立つ。

より直接に日本と関わるのは、金正浩の最期をめぐる物語である。朝鮮総督府が1934年に発行した「朝鮮語読本」には、興宣大院君が完成した地図の海外流出を恐れ、長年かけて作った木版を焼き、金正浩と娘を獄死させたという内容が記された。朝鮮総督府は日本の植民地統治機関であり、これは日本と無関係な韓国国内の伝説ではない。

この記述には、朝鮮の権力者を新しい知識や技術を拒む存在として描き、優れた人物を自ら葬った社会だという認識を植え付ける、植民地史観に基づくものだったとの批判がある。日本の読者が押さえるべきなのは、単に「昔の教科書には誤りがあった」ということではない。統治する側が教材を通じて、統治される側の歴史像を方向付ける問題である。

一方、今回の材料から、日本市場への影響や新たな日韓共同事業、観光需要の変化を論じることはできない。日本との接点は、そうした現在の動きを推測することより、地図史の比較と歴史叙述の検証にある。過去の教材に書かれた物語を出典ごと確かめ直すことは、日本で韓国史を伝える側にも求められる姿勢だ。

「獄死した」という話は、史料に耐えられるか

獄死説を考えるうえで、まず目を向けたいのは現存する資料である。焼かれたはずの地図の版木は残っている。金正浩の地図や地誌も、一部が失われているとはいえ、今日まで伝わっている。少なくとも、製作成果が権力者によって一掃されたという筋書きを、そのまま受け入れることはできない。

人間関係にも、この物語と合わない点がある。興宣大院君の側近だった申櫶(シン・ホン)は、金正浩の長年の知人であり、後援者でもあった。申櫶や、金正浩と交流した崔漢綺が処罰されたという記録もない。金正浩を孤立した地図製作者、政府をその仕事の一方的な敵とする単純な構図では説明しにくい。

さらに、王朝の記録である「高宗実録」、王命の伝達などを担った機関の日誌「承政院日記」、取り調べに関わる「推鞫案」にも、金正浩の投獄記録は見当たらないとされる。「里郷見聞録」で死を表すのに用いられたのが「没」であり、獄死説への反論で問題にされる「物故」という表現ではないことも、検討材料に挙げられている。

ただし、記録が見つからないという一点だけで、最期の状況すべてが確定するわけではない。版木の存在、交流関係、複数の記録を合わせて考えたとき、総督府の教材に記された獄死の物語を事実として語る根拠は乏しい、というのが重要な点だ。金正浩は1866年ごろ、南大門外の薬峴で肺の病気により亡くなったと考えられているが、これも推定として扱う必要がある。

申櫶らが軍事・国政に関わる備辺司や、王室の図書・学術機関である奎章閣の地図を提供したと推測し、地図製作は実質的に政府の支援を受けていたとする見方もある。ただし、この支援説も確定した事実とは区別すべきだ。英雄が国家に殺されたという物語を退けるために、別の分かりやすい物語を無条件に採用する必要はない。

刊行者と彫り手を分けて見る

金正浩をめぐる誤解は、全国踏破や獄死の話に限らない。世界地図「地球前後図」を再刊したのが金正浩であり、それに関わる「泰然斎」が彼の堂号だったという説も広まった。堂号は、書斎などの建物に付けた名が、その持ち主を表す呼称にもなるものだ。

しかし、李圭景の百科全書「五洲衍文長箋散稿」に収められた「地球図弁証説」には、再刊した人物は崔漢綺だと記されている。「地球前後図」は崔漢綺が刊行し、金正浩は版木を彫る仕事を担った。金正浩が関わったこと自体と、刊行の主体だったことは、分けて考えなければならない。

木版印刷の時代、図や文字を版木に刻む作業は、内容を読者に届けるための重要な工程だった。刊行者ではなかったと確認することは、彫り手としての貢献を否定することではない。誰が資料をまとめ、誰が刊行し、誰が版を作ったのか。それぞれの役割を明確にすることで、一人の名前だけでは見えなくなっていた知識の生産過程が浮かぶ。

金正浩は自分についての文章をほとんど残していない。思想を知る材料には「地図類説」や「東輿図志」の序文があるが、「地図類説」は複数の人の考えを聞いて整理した文章だという。作品に彼の名が関わっていても、すべてをそのまま本人だけの言葉や思想と受け止めない慎重さが求められる。

残された名前よりも、情報を更新する姿勢を

金正浩の名は、現代にも残る。小惑星には「95016 金正浩」という名前が付けられ、ソウルの道路「古山子路」は彼の号に由来する。韓国の街の名前に触れるとき、それが単なる地名ではなく、過去の知識人の記憶を受け継いでいる場合がある。古山子路もその一つだ。

だが、彼の遺産を記念の名前や一枚の代表作だけで捉えるのは十分ではない。地図を補い、地誌を書き直し、以前の記録の誤りや空白を埋めようとした仕事は、情報が古くなることへの自覚に支えられていた。一度完成すれば永遠に正しい資料などない、という問題は、地図をスマートフォンで見る現在にも通じる。

金正浩をめぐる議論で変わるのは、地図そのものだけではなく、その読み方である。孤独な英雄がすべてを自力で成し遂げたという理解から、行政や地域に蓄積された資料、人々の交流、収集と検証の積み重ねにも目を向ける理解へ。その視点を取ることで、個人の功績と、それを可能にした社会の知的な基盤を同時に評価できる。

これから関連する展示や人物紹介に接する際は、全国踏破をどこまで裏付けられるのか、最期の説明はどの記録に基づくのか、刊行と製作の役割は区別されているのかを確かめたい。新たな発見を待つだけでなく、すでに伝わる資料を丁寧に読むことにも意味がある。

日本で伊能忠敬の地図を考えるときにも、韓国で金正浩の地図を考えるときにも、完成品の見事さの背後には情報を得て、確かめ、整える仕事がある。金正浩が残した大きな教訓は、伝説の壮大さではなく、地理を社会に役立つ知識へと組み直した点にある。その仕事を正確に伝えることもまた、過去から受け取った情報を更新する営みなのである。

Source: Original Korean article - Trendy News Korea

コメント