イ・チャンドン監督『可能な愛』、ベネチア審査員大賞 失業と「撮る側」の距離、日本にも響く問い

イ・チャンドン監督『可能な愛』、ベネチア審査員大賞 失業と「撮る側」の距離、日本にも響く問い

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韓国映画に新たな節目、最高賞に次ぐ評価

仕事を失った夫婦と、その生活をカメラに収める夫婦。立場の異なる四人の出会いを通して、人はどこまで他者の人生に近づけるのかを問う韓国映画が、ベネチアで高い評価を受けた。韓国メディアの報道によると、イ・チャンドン監督の新作『가능한 사랑』(原題、日本語に直訳すると『可能な愛』)が、現地時間12日、第83回ベネチア国際映画祭で審査員大賞に選ばれた。日本での正式な題名は、今回の報道からは確認できない。

授賞式が行われたのは、イタリア・ベネチアのリド島にある映画祭の主要会場「パラッツォ・デル・チネマ」。審査員大賞は、最高賞の金獅子賞に次ぐ賞に位置づけられる。報道では、韓国映画がこの賞を受けるのは初めてで、同映画祭のコンペティション部門での受賞は韓国映画として14年ぶり、イ監督個人としては24年ぶりになるという。長く国際的に注目されてきた監督の新作が、韓国映画史にも一つの節目を刻んだ形だ。

ただし、このニュースを「韓国映画がまた世界で受賞した」という実績の積み重ねだけで読むと、作品の核心を見落とす。イ監督が授賞式で語ったのは、国の映画産業の勢いではなく、労働が失われ、人と人との関係が途切れていく時代に、映画には何ができるのかという問いだった。作品を支えるのは、生活の不安定さと、それを見つめる側の責任である。どちらも、日本の観客にとって遠い国だけの問題ではない。

二組の夫婦が映し出す、同じ社会の違う景色

物語の中心にいるのは、解雇された労働者の夫婦と、彼らを撮影するドキュメンタリー監督の夫婦だ。ソル・ギョングとチョン・ドヨンが労働者側の夫婦を演じ、チョ・ヨジョンがドキュメンタリー監督に扮する。その裕福な夫を演じるのがチョ・インソンである。四人はカメラをきっかけに出会い、それぞれに異なる経済的、社会的な背景を抱えながら、相手の暮らしや欲望に向き合っていく。

ここでいう「階級」は、身分制度のような固定的な区分を意味する言葉として受け取る必要はない。仕事や所得、資産、生活の余裕の違いが、ものの見方や他人との関わり方にまで及ぶという問題である。日本では「格差」という言葉で語られることの多い領域だ。同じ出来事に接しても、収入の途絶えた人と、当面の生活に不安のない人では、その切実さが違う。映画の設定は、その距離を二組の夫婦という身近な関係に引き寄せている。

重要なのは、報道で紹介されたあらすじが、単に「困っている人を支える映画監督」の物語にはなっていないことだ。撮られる夫婦にも、撮る夫婦にも、それぞれの人生と欲望がある。善意や共感があるからといって、対等な関係が成立するとは限らない。逆に、経済的な立場が異なるからといって、人は理解し合えないとも言い切れない。作品がどのような結末を示すのかは報道だけでは分からないが、その簡単には整理できない関係こそ、注目すべき出発点となる。

また、登場人物を二人ずつの夫婦として配置した点も興味深い。他者との隔たりは、社会の中にだけ存在するのではなく、最も近いはずの相手との間にも生まれうる。ただし、夫婦関係が具体的にどう描かれるのかまで、今回の情報から断定することはできない。鑑賞に際しては、二組の家庭を単純な「貧しい側」と「豊かな側」の象徴に置き換えず、四人それぞれが何を望み、何を言葉にできないのかを見る姿勢が求められそうだ。

失業を描くだけではない、「見る側」への問い

解雇を扱う映画と聞けば、会社と労働者の対立や、生活再建の困難を描く社会派作品を思い浮かべる人もいるだろう。本作の設定には、そこにもう一つの層がある。失業した人々を記録するドキュメンタリーの撮影者も、物語の当事者になっているという点だ。社会問題が、誰かに撮影され、編集され、観客に届けられる過程そのものが、作品を読み解く手がかりになる。

カメラは、普段は見過ごされる生活に光を当てることができる。一方で、撮影の範囲や場面の選び方によって、相手の人生の見え方を変えてしまう装置でもある。何を残し、何を画面の外に置くのか。撮る側が「伝えたい」と思うことと、撮られる側が「分かってほしい」と思うことは、必ずしも一致しない。これは本作の具体的な場面についての説明ではなく、ドキュメンタリー監督を登場させる設定から浮かび上がる一般的な論点である。

日本の読者なら、テレビの密着取材や、生活困窮者を取り上げる報道番組に置き換えると理解しやすい。視聴者は画面を通じて事情を知り、共感する。しかし、番組を見終えた後も、取材された人の日常は続く。「知った」という感覚と、相手の生活を実際に理解することの間には距離がある。本作は、韓国社会の格差を扱う作品としてだけでなく、他者の苦境を見ている私たち自身の位置を考える映画としても読む余地がある。

そこで問われるのは、撮影する人だけの倫理ではない。映画の観客もまた、他人の暮らしを安全な場所から見る立場にいる。画面の向こうにいる人物を、一つの社会問題の「代表」として理解したつもりになっていないか。強く心を動かされる物語を求めるあまり、その人の複雑さを取りこぼしていないか。作品が実際にどのような表現を選んだのかは鑑賞による検証が必要だが、紹介された設定は、そうした問いを受け止める準備を観客にも促している。

イ監督が語った「映画で何ができるのか」

イ監督は授賞式で、労働が消えつつあり、人間同士のつながりが断たれつつある時代に、映画で何ができるのか、映画は何をすべきなのかを問うために、この作品を作ったと説明した。そして受賞を、その問いを続けるよう促されたものとして受け止める考えを示した。映画が社会に明快な答えを与えるという宣言ではなく、問い続ける行為に意味を見いだした発言といえる。

「労働が消える」という表現は大きな時代認識を含むが、これを特定の技術や政策への批判と決めつけることはできない。今回の報道には、解雇の背景となる産業や企業の事情、雇用制度についての詳しい説明はない。人工知能による雇用代替や産業空洞化を直接描いた作品だと紹介するのは早計だ。確認できるのは、働く場を失った夫婦が物語の中心に置かれ、監督が労働と人間関係の変化を制作の動機として語っていることである。

仕事を失うことは、収入だけの問題ではない。毎日通う場所や、会話を交わす相手、自分が社会の一員であるという感覚にも関わる。これは韓国に固有の文化というより、日本を含む多くの社会で理解される経験だ。作品に描かれる個別の事情を尊重しながら、その先にある普遍的な不安を考えることができる。イ監督の言葉が国境を越えて届くとすれば、景気や失業率の数字だけでは説明しきれない、その生活感覚に触れているからだろう。

他方で、映画のメッセージを監督の発言だけで決めてしまうことにも注意したい。制作の動機と、完成した映画から観客が受け取るものは、完全には重ならない。登場人物の振る舞いや沈黙、映像の距離感が、言葉による説明とは別の意味を生むこともある。受賞時の発言は作品への入口にはなるが、最終的な解答ではない。「何を伝えたかったのか」だけでなく、「見ている間に自分の判断がどう揺れたのか」も、鑑賞後に考える手がかりになる。

四人の俳優へ、作品の「生命力」を託す

授賞式でイ監督は、チョン・ドヨン、ソル・ギョング、チョ・インソン、チョ・ヨジョンの四人に謝意を示し、映画に生命力を与えた俳優たちの賞だと語った。社会的なテーマが前面に出やすい作品だからこそ、人物を理念の代弁者で終わらせず、生きた人間として成立させる演技が重要になる。監督の言葉は、その役割を強調したものと受け止められる。

日本の韓国映画ファンには、過去の作品を通して親しみのある顔ぶれでもある。チョン・ドヨンはイ監督の『シークレット・サンシャイン』に主演し、ソル・ギョングは『ペパーミント・キャンディー』や『オアシス』で同監督と組んできた。チョ・ヨジョンを『パラサイト 半地下の家族』の裕福な家庭の母親役で記憶している観客もいるだろう。本作は、そうした俳優たちを、それぞれに異なる社会的位置を持つ四人として配置する。

もっとも、過去の代表作から今回の人物像を予想しすぎるのは禁物だ。同じ俳優が裕福な人物を演じても、作品が異なれば、その人物の背景も物語上の役割も変わる。また、今回の報道では、個々の演技を審査員がどう評価したかまでは示されていない。審査員大賞という結果を、そのまま特定の俳優への評価に読み替えることはできない。まずは四人の関係を軸に、映画全体がどのような緊張や変化を生むのかに目を向けたい。

『パラサイト』と同じ「格差映画」なのか

韓国映画と格差という組み合わせから、日本でも広く知られる『パラサイト 半地下の家族』を連想するのは自然だ。経済的に異なる立場の人々が接触するという点では、両作を並べて考える入口がある。ただし、その共通点だけで、新作を同じ種類の映画として紹介するのは適切ではない。今回のあらすじで明確なのは、失業とドキュメンタリー撮影が二組の夫婦を結びつけるという構図である。

とりわけ、撮る側と撮られる側の関係が加わることで、問題はお金の多寡だけにとどまらなくなる。他人の生活を語る機会を誰が持つのか、どのような説明が社会に受け入れられるのかという、表現に関わる力の差も考える必要が出てくる。相手に関心を寄せることと、その人の人生を自分の作品の中に収めることは、どこで重なり、どこで食い違うのか。本作ならではの読みどころは、そこにあると考えられる。

韓国社会を理解するうえでも、映画の登場人物をそのまま国民全体の姿に置き換えないことが大切だ。格差や雇用不安を扱った作品が国際的に注目されることと、韓国の人々が皆同じ経験をしていることは別である。また、「競争が激しい国だから」と一言で説明すれば、個人の暮らしの複雑さが失われる。映画は社会への関心を開く窓になるが、社会の全体像を示す統計や調査の代わりにはならない。この区別は、日本映画を海外に紹介する場合にも同じように必要になる。

日本にとっての意味――雇用と家族をどう見るか

日本の観客にとって本作の最も確かな接点は、韓国で起きた出来事の「日本への波及」よりも、作品が扱う問いの近さにある。雇用の不安定さ、経済的な余裕による選択肢の違い、困難を抱えた人と支援や取材をする人の距離は、日本でも考える必要のある問題だ。韓国の労働制度と日本の制度を同一視することはできないが、仕事を失った後の生活と人間関係に目を向ける姿勢は共有できる。

日本映画との比較では、是枝裕和監督の『万引き家族』など、暮らしの不安定さと人のつながりを描く作品が、考えるための手がかりになる。両作の物語や表現が同じだという意味ではない。社会の仕組みからこぼれ落ちる人々を、問題の見本としてではなく、感情や矛盾を持つ人物としてどう描くかという視点である。国際映画祭での評価を国別の勝ち負けとして眺めるより、作品が何を見せ、何を観客に委ねるのかを比べる方が、鑑賞の幅は広がる。

もう一つ、日本の観客に近いのが、映像を通じた「理解」のあり方だ。テレビや映画に加え、インターネット上でも、個人の苦境や家族の生活を見る機会がある。そこで生まれる共感は、関心を広げる力を持つ一方、短い映像だけで人物を判断する危うさも伴う。本作の撮影者と被写体の関係は、職業として映像を作る人だけでなく、日々それを受け取る人にも関係する。韓国の物語を見ながら、自分が日本でどのような映像を消費しているのかを振り返ることができる。

一方、今回の受賞によって日本の配給会社が動いた、日本企業の投資が増えた、日本のファンによる特定の活動が始まったといった事実は、提供された報道にはない。受賞を日韓の文化交流の具体的な拡大や、日本市場の商業的成功に直結させることはできない。現時点で日本向けに言えるのは、作品への関心を持つ材料が増えたことと、正式な国内公開情報を確認する必要があることだ。映画の社会的な近さと、市場での実際の動きは分けて捉えたい。

8年ぶりの新作、初めてのNetflix映画

報道によると、『可能な愛』はイ監督にとって8年ぶりの新作で、初めて手がけたNetflix映画でもある。長い間隔を置いて作品を発表する監督の新作が、国際映画祭を経て劇場と配信へ向かう。その公開の仕方も、今回のニュースの重要な要素だ。ただし、制作費や契約内容、Netflixが企画や表現にどこまで関わったのかは示されておらず、制作の自由度や資金調達の事情まで推し量ることはできない。

予定されている経路は、映画祭での上映、韓国の一部劇場での公開、その後の世界配信である。映画祭での評価を最初の接点にしながら、作品を映画館だけにとどめず、配信の利用者にも届ける構成となっている。少なくとも本作では、映画祭と配信は競合する二者択一として扱われていない。異なる鑑賞の場が、時間をずらして一つの作品につながる。

映画館では、上映時間の間、観客が同じ画面と音に向き合う。自宅での配信には、近くで上映がない場合にも作品に接する機会を得られる利点がある。一方で、視聴環境や画面の大きさ、途中で中断するかどうかによって、受け止め方は変わりうる。どちらが作品にふさわしいかを一律に決める必要はないが、人間同士の距離を描く映画が、異なる環境でどのように見られるのかは興味深い。

ここから、韓国映画全体が配信中心へ移行した、あるいは作家性の強い映画の将来がNetflixに託されたとまで結論づけるのは行き過ぎだ。一作品の公開計画だけで産業全体の趨勢は説明できない。ただ、国際的な評価を得た監督の新作が、映画祭、限定的な劇場公開、世界配信を組み合わせるという事例としては、今後の観客への届き方を考える材料になる。問われるのは公開時の話題だけでなく、鑑賞後の議論がどれだけ続くかでもある。

日本でいつ見られるか、確認すべき公開情報

韓国での劇場公開は9月23日から、一部の映画館で始まる予定とされる。その後、11月6日にNetflixを通じて世界に配信される計画だ。ここで「国内公開」という韓国報道の表現は、韓国内の上映を指す。日本でも9月23日に映画館で見られるという意味ではない。日本の読者に向けた情報としては、この区別を明確にしておく必要がある。

また、世界配信の予定が示されていても、今回の報道だけでは、日本向けの作品ページ、正式邦題、字幕や吹き替えの仕様までは確認できない。日本での視聴については、Netflixの日本向け案内で配信日や提供条件を確かめるのが確実だ。現時点で、日本での劇場公開の有無や、特別上映の予定も、この情報からは分からない。映画館での鑑賞を希望する人は、日本の配給や上映に関する正式発表を待つことになる。

日本市場への影響を見極めるうえでは、こうした具体的な情報が重要になる。どのような邦題で紹介されるのか、作品の社会的なテーマと俳優陣の魅力のどちらが前面に出るのか、劇場で見る選択肢が設けられるのか。いずれも今後確認すべき点であり、現段階の事実ではない。国際映画祭での受賞は関心を集めるきっかけになるが、日本で誰に届き、どのような対話を生むかは、実際の公開と受容を見て判断する必要がある。

7分の拍手と受賞、評価の中身はこれから

本作は現地時間6日にベネチアで世界初上映され、報道では7分間のスタンディングオベーションを受けたとされる。トロント国際映画祭にも招かれており、イ監督はベネチアでの日程を終えた後、カナダへ移動する予定だ。上映と受賞に続き、別の国際映画祭でも作品が観客や批評家に紹介される流れとなっている。

長い拍手は、その場の熱気を伝える分かりやすいエピソードである。ただし、拍手の時間は作品の優劣を測る共通の尺度ではなく、一般公開後の評価や興行成績を保証するものでもない。審査員大賞も、映画祭の審査員が高く評価したという重要な事実ではあるが、その理由を具体的に知るには講評などの情報が必要になる。今回の報道には詳しい選考理由がないため、特定の社会的主張が支持された結果だと断定することはできない。

同じ報道によると、今回の金獅子賞はメイ・エル=トゥーキー監督の『ウーマン・アンノウン』に贈られ、主演のマティルデ・アルセルは女優賞も受けた。『可能な愛』の受賞を正確に理解するには、最高賞とは別の賞であることも押さえておきたい。各賞の結果を単純な作品の順位表とみなすのではなく、どの作品のどのような表現が評価されたのかを追うことが、映画祭報道を読むうえで有用になる。

受賞の次に問われる、観客と作品の関係

今回の出来事には、二つの異なる重要性がある。一つは、韓国映画初と報じられた審査員大賞という映画祭史上の節目。もう一つは、他者の生活を見つめる映画が、映画祭と劇場、世界配信という複数の場を通して観客へ向かうことだ。受賞の瞬間に注目するだけでなく、その後にどのように見られ、語られるかまで追うことで、この作品が持つ意味はより明確になる。

特に見ていきたいのは、労働者の夫婦と撮影者の夫婦が、鑑賞後の議論でどのように扱われるかである。誰かを一方的な被害者、誰かを分かりやすい加害者とみなす感想に収まるのか。それとも、共感や善意にも限界があること、経済的な違いを意識しながら関係を結ぶ難しさが論じられるのか。これは映画の結論を先取りするものではなく、紹介された設定と監督の発言から導かれる、今後の受容を見るための視点だ。

日本の観客にも、韓国の格差を外から観察するだけではない見方が開かれている。隣国の登場人物に自分との共通点を見いだすこともあれば、制度や生活習慣の違いに気づくこともあるだろう。その両方を保つことが大切だ。違いを消して「日本も同じ」と結論づけるのでも、違いを強調して「韓国の話」と切り離すのでもなく、何が共有でき、何をさらに知る必要があるのかを考える。そうした鑑賞は、日韓の社会を理解するための控えめだが具体的な接点になる。

イ監督は受賞を、映画による問いを続けるよう促されたものと受け止めた。仕事を失った人の人生を、仕事の有無だけで語れるのか。他者にカメラを向けることは、理解への一歩なのか、それとも新たな距離を作るのか。そして、画面の向こうの誰かに心を動かされた私たちは、その人について何を知ったといえるのか。ベネチアの賞が示したのは、一つの作品への高い評価である。その問いを日本の暮らしに引き寄せて考える時間は、作品が届いたところから始まる。

Source: Original Korean article - Trendy News Korea

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