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仮面の向こう側にある、会社員のもう一つの顔
昼間は会社で働き、仕事を離れればインターネット上の別の名前で過ごす。職場の同僚には見せない表情を、画面の向こうにいる人たちには見せられる。そんな二つの生活は、日本でも決して遠い世界の話ではない。韓国ドラマ『マスクガール』は、その身近な境界線から出発し、犯罪スリラーへと観客を連れ出していく。
主人公のキム・モミは、長く自分の容姿に劣等感を抱いてきた会社員だ。彼女が喜びを感じるのは、マスクを着けてインターネット配信者として活動するとき。顔を隠すことが、かえって自分を表現するための条件になる。この逆説が、作品を貫く問いになっている。
『マスクガール』は2023年8月18日にNetflixで公開された韓国のスリラードラマ。制作はボンファクトリー、脚本と演出はキム・ヨンフンが担当した。映画『藁にもすがる獣たち』などを手がけた作り手による作品で、日常の人間関係が思いがけない事件へとつながっていく。
公開当日の話題としてだけではなく、いま振り返る意味もある。外見への不安、職場での居場所、ネット上で得られる手応えという入り口は、配信サービスで韓国作品に触れる日本の視聴者にも理解しやすい。一方で、モミの人生は「自信のなかった人が変身して成功する」という分かりやすい物語には収まらない。
韓国の「BJ」は、テレビの司会者ではない
物語を理解するうえで押さえたい言葉が、モミの活動を表す「BJ」だ。韓国のインターネット配信で使われる呼称で、Broadcasting Jockeyの略。ここでは、テレビ局のアナウンサーや番組司会者ではなく、ネット上で個人の番組を届ける配信者を指す。日本の読者なら「ライブ配信者」や「生配信の配信主」と考えるとつかみやすい。
会社でのモミと、BJとして画面に登場するモミは同じ人物である。それでも、周囲との関係や、自分自身に感じる可能性は同じではない。会社では外見への劣等感から自由になれない彼女が、顔を覆うことで人前に出る喜びを得る。マスクは、ただ身元を分からなくするための小道具ではない。
日本でも、ハンドルネームやアイコンを使い、実名の生活とは距離を取って交流することがある。顔を出さない配信という点では、アバターを介した活動を思い浮かべる読者もいるだろう。ただし、モミのマスクによる配信と、VTuberなどの多様な表現活動を同じものと見なすべきではない。比較できるのは、素顔を見せることだけが自己表現の方法ではない、という部分だ。
本作の緊張は、ネットでの別の顔が現実から完全に切り離されていないことにある。勤務先で築かれる関係と、配信を通して生まれる関係が交差するとき、マスクがつくっていた境界は不安定になる。そこから、居場所を探す物語はスリラーの様相を帯びていく。
一人の主人公を三人が演じる理由
『マスクガール』の際立った特徴は、キム・モミをイ・ハンビョル、ナナ、コ・ヒョンジョンの三人が演じることだ。単に主人公の幼少期と成人後を別の俳優が担当するのではなく、人生の異なる時期を三人が引き継ぐ構成になっている。
イ・ハンビョルが演じるのは、容姿への劣等感を抱きながら会社に通い、マスクを着けて配信するモミ。ナナは、予期しない事件を経て外見が大きく変わったモミを担う。そしてコ・ヒョンジョンは、時が流れ、制御の利かなくなった人生のなかで一つの目標に向かうモミを演じる。
この配役は、視聴者に「同じ人間だと、何によって判断しているのか」と問いかける。顔が変わり、置かれる環境が変わっても、モミにはそれまでの人生がある。見た目の印象だけで各時期の主人公を受け止めれば、その間をつなぐ経験や感情を見失いかねない。
外見をめぐる物語を、外見の異なる三人の演技でつないでいく。そこには、映像作品ならではの仕掛けがある。視聴者もまた、登場人物の顔を見て印象を組み立てる存在だからだ。モミを取り巻く人々の判断を眺めているつもりで、自分自身がどのように人物を見ているのかも試される。
ただし、この構成を「容姿が変われば人生が好転する」という教訓にまとめることはできない。三人が担うのは、外見の変化だけでは説明できない時間の重なりだ。誰が演じているかという話題性に加え、前の時期のモミを次の時期にどう見いだすかが、作品を追ううえでの見どころになる。
舞台が会社であることの重み
モミの日常の舞台は、勤務先の「大韓海上」だ。チェ・ダニエルが演じるチーム長パク・ギフン、キム・ガヒが演じる同僚ユ・サンスン、ジョンファが演じる後輩イ・アルムが、職場での人間関係を形づくる。配信の世界だけでなく、日々顔を合わせる相手がいる場所から物語は始まる。
韓国の職場で使われる「チーム長」は、日本の読者には部署やチームをまとめる上司と説明するのが近い。ただし、企業によって役割は異なり、日本の課長や部長と一対一で対応するわけではない。後輩という関係も含め、肩書や組織内での位置が人との距離を決める点は、日本の会社員にもなじみやすい。
会社では、本人が望むタイミングだけで人間関係を選び直すことは難しい。仕事が続く限り、上司や同僚と同じ場所に身を置くことになる。その場でどう扱われ、自分をどのような存在だと感じるのか。モミの外見への劣等感は、こうした継続的な関係のなかに置かれている。
だからこそ、配信中に得られる喜びとの落差が意味を持つ。モミは、現実の人間関係を持たないままネットに現れる人物ではない。勤務先での生活を抱えたまま、別の場所で自分を表現しようとする。その二重性は、仕事用と私生活用でSNSのアカウントを分ける感覚にも通じるが、ドラマはそこから穏やかではない方向へ進む。
「見る側」の孤独が、物語を動かす
配信するモミに対し、見る側の人物として重要なのが、アン・ジェホン演じるチュ・オナムだ。モミと同じ会社で働き、彼女に片思いをしている。彼自身も外見にコンプレックスを持ち、職場では存在感が薄い。インターネット配信を見ることが、日々の唯一の楽しみになっている。
モミとオナムには、外見への不安と、会社では満たされない思いという共通点がある。しかし、似た孤独を持つことは、そのまま相手への理解を意味しない。オナムの日常がBJとして活動するモミと予期しない事件によって結びつくことで、物語の緊張が高まっていく。
ここで注目したいのは、配信が発信者だけの世界ではないことだ。画面の向こうに誰かがいるからこそ、見てもらう喜びが生まれる。同時に、見る人にも独自の期待や解釈がある。配信者が届けようとした自分と、視聴者が受け取った人物像が、必ず一致するとは限らない。
この構図は、日本で配信者やファンの関係を考える際にも示唆的だ。ただし、オナムという架空の人物をもって配信の視聴者全体を語ることはできない。作品が描く危うい関係と、現実の多様なファン活動は区別する必要がある。本作を読む手掛かりは特定の層への偏見ではなく、相手について知っているつもりになることの危うさにある。
オフィスドラマから犯罪劇へ、変わり続けるジャンル
会社員の生活を入口にしているからといって、『マスクガール』を職場の人間模様だけを描く作品だと考えると、その展開に驚かされる。韓国の映画専門誌『シネ21』のキム・ソヒは、第1話では典型的なオフィスものに見えた作品が、回を重ねるにつれて犯罪スリラー、捜査もの、ロードムービー、成長もの、メロドラマへと幅を広げる点を評価した。
これは、単に盛り込まれる事件が多いという話ではない。職場での振る舞いを見ていた視聴者が、別の局面では犯罪の行方を追い、さらに人物の時間や感情の変化を見つめるようになる。ジャンルが移り変わることで、同じ主人公を見るための枠組みも変わっていく。
日本のドラマに親しんだ読者にも、会社を舞台にした群像劇、事件の真相を追うサスペンス、人生の転機を描く人間ドラマは、それぞれなじみのある形式だ。本作はそうした見方を一つに固定しない。冒頭の設定だけで視聴するかどうかを決めると、作品全体の射程を捉えきれない可能性がある。
もっとも、複数のジャンルを行き来すること自体が、作品の優劣を決めるわけではない。重要なのは、変化のなかでモミという人物の人生がどうつながるかだ。三人の俳優による主人公の継承と、語り口の変化。その二つを併せて見ると、本作の構成上の挑戦が分かりやすくなる。
日本の視聴者と市場にとって、何が読み取れるか
日本との接点で最も確かなのは、Netflixという配信サービスを通じて韓国ドラマに触れる視聴の文脈だ。『マスクガール』は、韓国の会社や配信文化を背景にしながら、外見への不安や、ネット上の自分と実生活の自分との距離を扱う。韓国の事情を詳しく知らなくても、自分の生活と照らし合わせる入口がある。
特に日本の読者にとっては、「韓国の外見重視の社会を描いた話」と距離を取って終えるのではなく、身近なルッキズムを考えるきっかけになる。ルッキズムとは、容姿によって人を評価したり、不利に扱ったりする考え方を指す。職場での印象、写真に写る自分、SNSに載せる顔など、外見と評価の接点は、日本でも理解しやすい論点だ。
ただし、このドラマだけを根拠に、韓国の職場全体が外見で人を評価しているとか、日本より問題が深刻だと結論づけることはできない。フィクションは社会について考える手掛かりにはなるが、国民性を証明する資料ではない。日韓を比較するなら、似た不安を持つ人がいる可能性に目を向けつつ、制度や実態の違いは別途確かめる必要がある。
日本市場への影響についても、線引きが要る。今回の韓国記事の要約には、日本での視聴数やランキング、日本企業の関連事業、日本のファンの具体的な動向は示されていない。そのため、日本で大ヒットした、日本の制作会社が追随している、といった評価はできない。
それでも、日本の映像作品を見る側や作る側にとって、検討できる表現上の論点はある。一人の主人公を三人に託すこと、職場劇から複数のジャンルへ展開すること、ネット上の人格を現実の生活と切り離さずに描くことだ。これは本作が日本の制作現場に影響したという意味ではない。国を越えて作品を比較するとき、どこに着目すると発見があるかという視点である。
世界へ届く配信作品が、配信そのものを描く
『マスクガール』には、配信をめぐる二重の構造がある。作品を届けるのはNetflixであり、作品の中でモミの別の生活を成り立たせるのもインターネット配信だ。前者は完成したドラマを視聴者に届けるサービス、後者は登場人物が自ら画面に立つ活動で、仕組みは同じではない。それでも、画面を介して他者を見るという行為が両方をつないでいる。
韓国記事がグローバルOTT作品として本作を取り上げる接点も、ここにある。OTTは、インターネットを通じて映像などを届けるサービスを指す言葉で、日本の読者には動画配信サービスと考えると分かりやすい。物語の素材である配信と、物語を流通させる配信を重ねることで、視聴者自身の立場も意識される。
画面の中のモミを見ているオナムを、さらにドラマの視聴者が見る。そこには、他人の姿を見て、その人の内面まで分かったと感じる行為が幾重にもある。本作をネット配信に対する単純な警告として読むより、私たちが画面越しの人物像をどう組み立てるかという問いとして読む方が、その複雑さを捉えやすい。
この一本から、韓国ドラマ全体の制作傾向や配信業界の変化を断定することはできない。ただ、配信が物語の届け方であるだけでなく、登場人物の居場所や自己表現を描く題材にもなっている点は重要だ。見る手段と、見られる生活。その重なりを考える作品として、本作を位置づけることができる。
アン・ジェホンの受賞が示す、人物造形への評価
チュ・オナム役のアン・ジェホンは、2024年の第60回百想芸術大賞で、テレビ部門の男性助演賞を受賞した。百想芸術大賞は韓国のテレビや映画などを対象とする主要な賞であり、この受賞は本作の演技面での評価を示す具体的な実績だ。
オナムは、会社では目立たず、容姿に不安を抱え、配信視聴を日常の支えにしている人物である。そうした要素を持つ脇役が、主人公の人生と深く関わっていく。受賞の事実は、三人で一役を演じる主人公の構成だけでなく、その周囲の人物にも目を向けるきっかけになる。
ただし、賞を取ったことと、作品のすべての表現が社会的に肯定されたことは別だ。受賞理由の詳細が示されていない以上、審査側がどの場面や演技上の工夫を重視したかを推し量ることも避けたい。確かに言えるのは、この役を演じたアン・ジェホンが、韓国の主要な賞で助演俳優として評価されたという点である。
視聴するときには、モミとオナムを「容姿への劣等感を持つ人」という一つの説明に閉じ込めないことも大切だ。同じような不安を抱えていても、他人との関わり方や行動は同じではない。共通点と違いの両方を見ることで、人物同士の関係がより立体的になる。
外見の変化よりも、その人を見る目を問う
『シネ21』のキム・ソヒは、マスクという素材を通じて、人と人をつなぐはずの媒介が、それ自体で本質のようになった社会の無表情さが表れると分析している。少し言い換えれば、その人を伝えるためのイメージが、いつの間にかその人自身の代わりになってしまう、という読み方だ。
モミにとってマスクは、顔を隠すものと、配信者としての自分を可能にするものを兼ねる。だから、「仮面を外せば本当の自分が現れる」という分かりやすい図式では捉えにくい。素顔で会社にいるモミの方が、常に自由に自己表現できているわけではないからだ。
日本の視聴者にも、この問いは持ち帰ることができる。実名のプロフィールが必ず本人のすべてを表すわけではなく、匿名の発言がすべて偽物であるわけでもない。どちらの場でも、人は見せる部分と見せない部分を持つ。本作の設定は、その使い分けを単純な本音と建前の関係に押し込めず、自己表現と他者の評価が絡み合う問題として考えさせる。
これから本作を見るなら、外見がどう変化したかだけでなく、各時期のモミを誰がどう見ているかに注目したい。職場の人々、配信の視聴者、そしてドラマを見ている自分。それぞれが抱く人物像と、三人の俳優がつないでいく一人の人生との間に、どんな隔たりがあるのか。
『マスクガール』の入口は、顔を覆った会社員という強いイメージにある。しかし、そこから浮かび上がるのは、見た目が変わる話よりも広い問題だ。人は、他者から見られることで自分を表現する機会を得る一方、その視線に縛られもする。韓国を舞台にしたこのスリラーは、日本で画面を見る私たちにも、自分が相手の何を見ているのかを問い返している。
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