読者を戸惑わせた「烏瞰図」、東京で閉じた生涯――李箱から読む日韓の近代文学

読者を戸惑わせた「烏瞰図」、東京で閉じた生涯――李箱から読む日韓の近代文学

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「分からない」という反発の先に残った文学

新聞に掲載された詩が、読者から難しすぎると批判され、15編で連載を終える。1934年、日本の植民地統治下にあった朝鮮で、そんな出来事が起きた。作者は李箱(イ・サン)。代表作となる連作詩「烏瞰図(オガムド)」は、発表当時、必ずしも歓迎されたわけではなかった。読み慣れた文章の形を崩す試みは、文学の新しさとして評価される前に、新聞読者の戸惑いや反発にさらされた。

李箱は、詩人、小説家という肩書だけでは捉えにくい人物だ。画家を志し、建築を学び、朝鮮総督府の技術職として働いた。雑誌の表紙をデザインする一方、日本語で詩を発表し、やがて韓国語による実験的な作品を生み出した。文学、美術、建築の間を行き来したその生涯は、1937年、東京の病院で途切れる。満26歳という短い人生だった。

その歩みは、日本の読者にとっても遠い国の文学史ではない。日本語を創作に使うこと、植民地の官庁に勤めること、東京へ渡ることが、一人の書き手の人生の中で重なっているからだ。李箱を読むことは、韓国文学の独創性に触れると同時に、日本と朝鮮半島が対等ではない関係で結び付けられていた時代を、言葉と表現の側から見直すことでもある。

画家を夢見た少年が、建築の世界へ

李箱の本名は金海卿(キム・ヘギョン)。1910年9月23日、現在のソウルに当たる京城で生まれた。日本による韓国併合と同じ年の出生である。父は宮内府の印刷所で働いていたが、指を失った後、理髪店で家計を支えた。金海卿は1913年から伯父の家で育つ。伯父は学業を援助する一方、一家を盛り立てる人材になることを期待して厳しく接したという。

1917年に入学した新明学校では、後に画家となる具本雄(ク・ボヌン)と出会った。この友人は、李箱の創作にも仕事にも関わり続ける重要な存在となる。東光学校を経て普成高等普通学校へ進んだ金海卿は、当初、画家を目指していた。1925年には校内の美術展覧会で油彩画「風景」が入選している。文学者として知られる後年の姿だけでは、美術への強い関心を見落としてしまう。

1926年に進学したのは、京城高等工業学校の建築部だった。1929年には首席で卒業する。「李箱」という名前を卒業記念の写真帳に記したのも、この頃だ。友人の具本雄から贈られたスモモの木製の画材箱が筆名の由来だったとする証言がある。「李」はスモモ、「箱」は文字通り箱を意味する。ただし、筆名の由来を語る証言と、確実にたどれる学歴や職歴とは、分けて受け止める必要がある。

植民地官庁の技術者と、日本語で書く詩人

卒業後、学校の推薦を受けた李箱は、朝鮮総督府内務局建築課の技手となった。技手とは、当時の官庁で専門的な実務を担った技術職の呼称だ。同年11月には官房会計課の営繕係へ移った。植民地統治を担う組織の一員として建築の仕事に就きながら、彼は職務の外でも造形への関心を広げていく。

朝鮮建築会の正会員として活動し、学会誌「朝鮮と建築」の表紙図案の公募では、1等と3等に選ばれた。1931年には第10回朝鮮美術展覧会で西洋画「自像」が入選している。図面を引く技術、紙面を構成する感覚、絵画による自己表現が、同じ人物の中に共存していた。後の作品に数字や数学的な記号が現れることを考える際、この経歴は重要な手掛かりになる。ただし、建築を学んだから特定の詩が生まれたと、単純な因果関係にまとめることはできない。

文学上の出発点は1930年だった。朝鮮総督府の植民地政策を宣伝する雑誌「朝鮮」の国文版に、李箱の筆名で長編小説「十二月十二日」を9回にわたって連載した。これは生涯で唯一の長編小説となる。1931年には「朝鮮と建築」に「異常ナ可逆反応」など20編余りの日本語詩を3回に分けて発表し、翌年も「建築無限六面角体」の題の下で日本語による詩作を続けた。

日本の読者がここで注意したいのは、日本語で書いたという事実を、現在の自由な外国語選択と同じようには説明できないことだ。李箱の教育と就職、発表媒体はいずれも植民地社会の制度と結び付いていた。一方、その作品を統治への賛否だけで分類しても、言葉そのものを作り替えようとする試みは見えにくくなる。制度の制約と個人の表現を、同時に読む必要がある。

結核、退職、そして京城の「茶房」

李箱は1931年に肺結核と診断された。1933年、新たに赴任した日本人上司との摩擦が生じる中で喀血が悪化し、技手の職を辞した。療養先は黄海道の白川温泉だった。そこで出会った錦紅(クムホン)と、京城の鍾路1街で茶房「つばめ」を営み、共同生活を始める。しかし店の経営難に関係の不和が重なり、錦紅は1935年に去った。同年9月には店も閉じている。

韓国語の「タバン」は、漢字では「茶房」と書く。ここでは日本の読者には、喫茶店に近いものと考えると分かりやすい。ただし、現代の韓国で見られるカフェ文化を、そのまま1930年代の店に重ねることはできない。李箱にとって店を持つことは、文学者らしい洒落た暮らしというだけでなく、病を抱えながら生活費を得るための現実的な営みでもあった。

その後、李箱は両親の家を担保に入れ、仁寺洞のカフェ「鶴」を引き継いだ。店には権順玉(クォン・スノク)を女給として迎えた。「女給」は当時の飲食店などで接客を担う女性の呼称で、現在の職種のイメージだけでは捉えにくい言葉でもある。ゴーリキーの全集を読んでいた権順玉は、李箱の外見や暮らしぶり、作品から英国の作家D・H・ロレンスを連想し、「ロレンスの模造品」というあだ名を付けた。李箱自身は、それを気に入っていたという。

恋愛の逸話を、そのまま作品の答えにしない

錦紅や権順玉との関係は、李箱の小説にも形を変えて現れる。1936年12月発表の「逢別記」には、錦紅から殴られて家を出た語り手が、数日後に戻ると彼女が去っていた、という場面がある。生前の関係を知る上で注目されてきた記述だが、小説の一節を、出来事をそのまま記録した証言と同一視することはできない。そこには作者による選択や構成がある。

権順玉をめぐっては、李箱の友人である鄭人沢(チョン・インテク)が彼女を愛し、自殺を図る出来事があった。その後、権順玉と鄭人沢は結婚し、李箱が結婚式の司会を務めている。1936年6月発表の「幻視記」では、李箱に重なる「私」、権順玉を思わせる順英、鄭人沢に対応する宋君という人物配置によって、この関係が作品へと組み替えられた。

日本の文学に親しんだ読者なら、作者の生活と作品を重ねて読む私小説を連想するかもしれない。その連想は入り口にはなるが、李箱の作品を告白や実録として読み切ると、その特徴を取り逃がす。重要なのは、誰が誰のモデルかという対応表だけではない。語り手の視点がどう揺らぎ、人間関係がどのような感覚や文章の形に変わっていくかに、文学上の実験がある。女性たちもまた、単に「天才作家に影響した恋人」という役割だけに縮めるべきではない。

「烏瞰図」が揺さぶった、新聞と読者の約束

1933年、李箱は李泰俊(イ・テジュン)、鄭芝溶(チョン・ジヨン)、金起林(キム・ギリム)、朴泰遠(パク・テウォン)ら、文学団体「九人会」の中心的な書き手と交流を始めた。九人会は、李箱を孤立した奇才としてだけ見るのではなく、同時代の文学者との関係の中に位置付けるための重要な存在だ。鄭芝溶の仲介で雑誌「カトリック青年」に韓国語の詩「花の木」「こんな詩」などを発表し、同年には「鏡」も掲載された。

1934年、李泰俊の助力で「朝鮮中央日報」に「烏瞰図」の連載が始まる。7月24日の「詩第一号」から8月8日の「詩第十五号」まで続いたが、難解な表現への抗議や非難を受けて打ち切られた。題名は、高い場所から見下ろす図を意味する「鳥瞰図」の「鳥」を、「烏」、つまりカラスに置き換えたものだ。日本語でも漢字の違いを目で確かめられるため、見慣れた言葉を少しずらす感覚に近づきやすい。

この連載中断は、「時代が天才を理解しなかった」という一言では片付かない。新聞という広い読者に届く媒体に、従来の読み方が通じにくい文章が持ち込まれた出来事でもある。意味が順序よく伝わること、言葉が一定の文法に従うこと。読者が当然と考えていた約束を、李箱の実験は揺さぶった。なぜ拒まれたかを考えることは、何が新しかったかを考えることにつながる。

李箱は同じ年、朴泰遠の「小説家仇甫氏の一日」に、河戎という別名で挿絵も描いた。詩の紙面だけでなく、他者の小説に添える視覚表現にも携わっていたのである。文章と絵、個人の創作と仲間との協働を行き来する姿からは、孤独な天才という定型的な人物像とは異なる、文学の現場で働く表現者の顔が見えてくる。

「翼」の内面描写と、創作が集中した1936年

1936年は、李箱の創作が最も活発になった年だった。具本雄の紹介で昌文社に勤め、九人会の同人誌「詩と小説」の創刊号を編集、発行する。短編「蜘蛛会豕」と「翼」が批評家の関心を集め、連作詩「易断」の発表や「危篤」の連載も続いた。病や生活の困難がある一方で、発表の場と文学者のつながりが作品を世に送り出していた。

代表作「翼」には、無気力な夫と、売春をする妻が登場する。妻の名前である蓮心は、錦紅の本名でもあった。ここにも生活と創作の接点があるが、作品の読みどころはモデル探しに尽きない。出来事の筋道を外から説明するよりも、人物の内側の感覚を前面に出すことで、周囲の社会とうまく結び付けない状態を描き出す。

李箱の文章には、文法を崩す表現や数学記号が現れる。また、思考や連想の移り変わりを追う「意識の流れ」の手法によって、無意識や社会からの疎外を浮かび上がらせる。日本の読者には、物語を出来事の順番で語るのでなく、頭の中で考えが飛び、同じ感覚に戻り、ときに矛盾する、その動きに文章を近づける試みと説明できるだろう。

これは、単に難しい言葉を並べて読者を試すということではない。整理された文章ではこぼれ落ちる不安や自己の不確かさを、文章の形そのものに引き受けさせる方法である。李箱の文学史上の重要性は、題材の珍しさだけでなく、「どのように書くか」という土台を変えようとした点にある。

日本にとっての意味――「影響」の一方向では読めない

李箱を日本の文学史と結び付ける際、手掛かりになるのが、昭和初期のモダニズム文学との比較である。日本でも横光利一らが、感覚の捉え方や文章の組み立てを更新しようとした。都市生活や人間の意識を、従来とは違う形で表そうとする問題意識を並べて読むことはできる。ただし、今回たどれる経歴だけから、李箱が特定の日本人作家の影響を受けたと断定することはできない。比較できることと、直接の影響関係が証明されていることは別だ。

より確かな接点は、李箱自身が日本語で作品を発表し、最後の時期を東京で過ごした事実である。日本語の作品を、日本文学に属するか、韓国文学に属するかという二者択一だけで扱うと、植民地に生きた作者の複雑な立場が見えなくなる。誰が、どの制度の下で、その言語を使っていたのか。日本の読者には、文章を読むと同時に、その条件を問う視点が求められる。

韓国文学を日本語訳で読む際にも、李箱のような書き手は翻訳の問題を具体的に示してくれる。内容を分かりやすく言い換えるだけでは、崩された文法や記号、紙面上の配置が持つ働きを損なう可能性があるからだ。読者にとっては、物語の説明だけでなく、原文の形式や使用言語を解説した注記にも目を向けることが、作品を理解する助けとなる。

もっとも、今回の資料には、日本での販売部数、新刊の刊行計画、読者層の変化を示す情報はない。李箱の再評価が日本市場で広がっているとまでは言えない。ここで日本との関係から指摘できるのは市場の拡大ではなく、読む枠組みの問題だ。韓国の作家を日本文学の周辺に置くのでも、日本との接点を切り離すのでもなく、不均衡な歴史の中で生まれた独自の表現として受け止めることに意味がある。

東京での拘禁と、病院で迎えた最期

李箱は1936年6月、卞東琳(ピョン・ドンニム)と結婚し、京城の黄金町で暮らし始めた。卞東琳は梨花女子専門学校の英文科を卒業し、具本雄の叔母に当たる人物だった。家族の反対を押し切っての結婚だったが、婚姻届は出していなかった。同年、李箱は一人で日本へ渡り、東京で申百秀、李時雨、鄭玄雄、趙豊衍らと文学を論じた。

しかし東京での日々は長く続かなかった。1937年2月、日本の警察に思想上の嫌疑で逮捕され、およそ1カ月間拘禁された。肺結核の悪化により釈放された後、東京帝国大学の付属病院へ入院した。逮捕の具体的な根拠や取り調べの詳細は、今回の資料では明らかではない。拘禁と健康悪化の経過は重要だが、資料が示していない部分まで補って語るべきではない。

危篤を知らせる電報を受けた卞東琳は東京へ駆け付け、夫と再会した。李箱は同年4月17日に死去した。最期の言葉は、メロンを食べたい、というものだったと伝えられる。卞東琳は後の随筆で、メロンを買いに出掛け、戻って切って差し出したものの、李箱はのみ込めなかったと回想している。香りを喜ぶように表情が動き、彼女はその手を握り続けたという。

この場面は、残された伴侶の記憶を通じて伝わる最期である。鮮烈な逸話だからこそ、本人の記録と、後年の回想を区別して読むことが大切だ。卞東琳が追悼の言葉で述べた「27年」と、生年月日から算出する満年齢の26歳も、混同しないようにしたい。遺骨は火葬後、朝鮮へ戻され、弥阿里の共同墓地に葬られた。

「天才」の物語を越えて、作品の形を読む

李箱の死後、友人の朴泰遠は、女性や酒、友人、文学を深く愛した一方、その半分ほどにも自分の体を大切にしなかった、と振り返った。また、その死を、病死という名を借りた一種の自殺ではなかったかと評している。しかしこれは、友人を失った作家の解釈であって、死因を示す医学的な記録ではない。李箱は肺結核で亡くなった。病や自己管理の難しさを、創造性の証明として美化しない姿勢も必要だ。

後世の評価を示す制度も生まれた。文学思想社は1977年に李箱文学賞を、現代仏教新聞社と季刊誌「詩と世界」は2008年に李箱詩文学賞を設けた。生誕100年の2010年には、生前の発表作と死後に見つかった作品を合わせて検討し、その文学を捉え直す動きが活発になった。発表当時は新聞連載が続けられなかった詩人の名前が、後には文学賞に掲げられる。この変化自体が、実験的な表現への評価は固定されないことを物語る。

李箱の歩みを振り返って見えるのは、ある日に傑作が突然生まれたという話ではない。美術への憧れ、建築教育、日本語による詩作、韓国語の文学者との交流、雑誌編集と新聞掲載。その積み重ねの中で、文章の既存の形を破る試みが具体化していった。そして、読者の拒否と批評家の注目が、同じ短い生涯の中で起きていた。

これから作品に触れる日本の読者が注目したいのは、難解さを解くための唯一の正解ではなく、なぜその形でなければ書けなかったのかという問いだ。翻訳と解説を手掛かりに、言葉の切れ目、視点の移動、数字や記号の働きを確かめていく。「烏瞰図」と「翼」は、植民地期の歴史を背負いながらも、その背景の説明だけでは尽くせない作品である。日本と韓国の文学を結ぶ読み方は、違いを消すことではなく、共有した歴史の中で、それぞれの表現が何を変えようとしたのかを見極めるところから始まる。

Source: Original Korean article - Trendy News Korea

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