「王」の印が問い直す古代の山城像 韓国・海南の初発掘、日本の古代城郭にも通じる統治の風景

「王」の印が問い直す古代の山城像 韓国・海南の初発掘、日本の古代城郭にも通じる統治の風景

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山上の城から見えてきた「役所」の顔

山城と聞くと、敵の侵入を防ぎ、戦いに備える施設を思い浮かべるだろう。だが、韓国南西部の海南(ヘナム)郡で初めて行われたコダ山城の発掘調査は、そのイメージだけでは捉えきれない古代の城の姿を示した。「王」の一字が刻まれた青銅製の印章、文字の入った瓦、中国・唐の形式を持つ金銅製の帯。山上から現れた品々が浮かび上がらせるのは、防衛拠点であると同時に、地方を治める政治・行政の拠点だった可能性だ。

海南郡によると、調査は報道で「今年」とされる年の6月から3カ月間実施され、出土品は100点余りに上った。提供された報道要約には西暦年が示されていないため、実施年の特定はできない。城壁や門の遺構も確認され、遺物と建築構造の両面から、統一新羅時代にこの山城が果たした役割を考える材料がそろった。

とりわけ注目されるのが、通常の地方役所の水準を超える、最上位層の権威を示す品と評価される印章や帯である。調査成果は、コダ山城が新羅中央と結びつく高位の地方官衙だった可能性を補強している。ただし、誰が印を所有し、どの官職の人物が帯を着けたのかまで判明したわけではない。今回の発見の重要性は、王の滞在を物語るような華やかな筋書きではなく、地方統治の実態に迫る手がかりが得られた点にある。

統一新羅の地方支配を、城の内側から考える

新羅は7世紀後半、唐との関係や戦争を経て、百済・高句麗の旧領の多くを支配下に収めた。一般に統一新羅時代と呼ばれるのは、そこから10世紀前半までの時期である。日本史に重ねるなら、飛鳥時代の後半から奈良時代、平安時代の初めにまたがる。都の制度が整う一方、中央の権力を各地でどのように働かせるかが重要だった時代と見ると、今回の調査の位置づけを理解しやすい。

報道でコダ山城の性格を表すのに使われているのは、「治所城」という言葉だ。「治所」とは地方行政を担う役所や、その所在地を指す。つまり、守るためだけの城ではなく、地方を治める機能を備えた城という意味になる。日本でいえば、国府や郡衙が担った行政の役割を思い浮かべると近い。ただし、国ごとに制度や施設の構成は異なり、日本の国府がそのまま山城の中にあったと考えるのは正確ではない。

今回の発掘では、統一新羅時代に石積みの山城が築かれ、治所城として運用されたことを裏づける資料が得られたとされる。城壁だけなら軍事的な説明に傾きやすいが、印章や文字瓦、身分を示す装身具が加わることで、そこで命令を伝え、地域を管理した人々の存在が検討できるようになる。山城を「戦いの建築」として見るだけでなく、「統治の場」として読むことが、今回の成果を理解する鍵だ。

もっとも、具体的にどのような行政事務が行われていたかは、提示された資料だけでは分からない。租税の収納や物資の管理などは古代の地方支配を考える一般的な論点だが、この山城でそれらが確認されたとまではいえない。行政拠点という大きな性格と、個別の業務内容の復元は、段階を分けて考える必要がある。

「王」の印章は、王の居城を意味するのか

出土品の中で、最も目を引くのは「王」と刻まれた青銅印章だろう。日本の読者には、福岡市の志賀島で見つかった「漢委奴国王」の金印を連想させるかもしれない。しかし、同じ印であり、同じ「王」の文字があるからといって、両者を同じ性格のものとして扱うことはできない。材質も銘文も異なり、コダ山城の印章については、今回の報道だけでは製作年代や所有者、授与の経緯は明らかでない。

郡の説明を伝える報道では、この青銅印章は行政文書などに用いられたと推定されている。確認された事実は「王」の文字を持つ印章が出土したことであり、行政文書への使用は、その用途についての解釈だ。印を押した文書そのものが見つかったという情報は、提供された要約にはない。この違いを押さえることが、発見の意味を過大にも過小にも評価しないために欠かせない。

日本では印章が本人や組織の意思を示す道具として身近だが、現代の実印や役所の公印の仕組みを、そのまま古代に当てはめることはできない。それでも、印が権限や身分と関わる可能性を持つ品であることは理解しやすい。城内での出土という文脈が、政治・行政の活動を考えるうえで重みを持つ。

注意したいのは、「王」の字があることと、実際に王が使ったことは別だという点だ。王の来訪、王族の居住、王宮の存在までを示す資料は、今回の要約にはない。今後、印面の形や寸法、加工方法、他地域の類例、出土した地層との関係が詳しく示されれば、その性格を絞り込める可能性がある。印章は強い印象を与える一方、慎重な比較を必要とする遺物でもある。

文字瓦がつなぐ百済の地名と新羅の行政

歴史を具体的な土地に結びつける資料として重要なのが、「塞琴官」と記された瓦である。報道では韓国語で「セグムグァン」と読まれ、文献に残る百済の行政地名と関連する資料と説明されている。人名や地名、組織名を含む文字資料は、形や材質だけでは分からない建物の背景を考える際の手がかりになる。

山城のある県山(ヒョンサン)面は、百済時代の塞琴県、統一新羅時代の浸溟県、高麗時代の海南県の治所が置かれた地域と推測されている。ここでいう「県」は古代の行政区画であり、現在の日本の都道府県と同じ規模や権限を持つものではない。時代ごとに地名や支配の枠組みが変わる中で、この一帯が行政上の重要性を持ち続けた可能性がある。

その土地から、古い行政地名につながる文字瓦が出たことには意味がある。文献上の地名と、現地に残る建物の痕跡を照らし合わせる足場ができるからだ。日本の古代史でも、地名や役所に関わる文字のある土器、瓦、木簡などは、遺跡の性格を判断する重要な材料となる。今回の瓦も、単なる屋根材ではなく、地域の歴史を読む文字資料として注目される。

ただし、百済の地名と関係する瓦が見つかったことだけで、石積みの城壁全体を百済時代のものと決めることはできない。地名が後世にも残った可能性や、瓦の製作・使用時期と建物の年代の違いなど、検討すべき点がある。報道要約では各遺物の詳しい出土状況までは示されていないため、百済から新羅への行政の継続性についても、今後の分析を待つ部分が大きい。

唐風の帯が示す、地方と中央の距離

もう一つの主要な出土品は、中国・唐の形式を持つ金銅製の帯だ。金銅とは、銅や銅合金の表面に金めっきを施したものをいう。純金の帯が出たという意味ではないが、金色に輝く装具は、着用者の地位や権威を視覚的に示す役割を持ち得る。考古学でいう「威勢品」は、こうした身分や力を表す品を指す。

報道では、この帯は統一新羅の身分制度や地方支配の仕組みを理解する資料と位置づけられている。青銅印章とともに、一般的な地方役所の水準を超える高い格式を示すと評価され、新羅中央につながる高位の官衙だったという見方を支えている。遠く離れた地方にも、中央の権威を目に見える形で示す道具が届いていた可能性を考えさせる発見だ。

ただし、「唐の形式」という説明と、「中国で製造され、直接持ち込まれた」という説明は同じではない。意匠や構造が唐の様式に属していても、製作地や流通経路を確定するには別の検証が必要になる。今回の要約では、その帯が輸入品か、唐風の形式を採り入れて別の場所で作られたものかは示されていない。

奈良時代の日本も、唐を大きな参照先として制度や服飾を整えていた。そのため日本の読者には、帯のような装身具が単なるおしゃれではなく、公的な身分の表現になり得たことが理解しやすいだろう。コダ山城の帯は、東アジアに共有された権威の表現と、それを地方で用いた人々の関係を考える材料になる。ただし、この帯と日本との直接のつながりが確認されたわけではない。

海と陸を見渡す立地、石垣の内側に残った技術

コダ山城は、朝鮮半島南西部の海上交通路と、陸側からの接近路を見渡せる場所にある。山頂付近を城壁で囲む「テメ式」と呼ばれる構造で、山の地形を生かした石積みの城だ。日本の読者には、山頂を城壁が鉢巻きのように取り巻く姿を思い描くと分かりやすい。日本の戦国時代の山城と外見上の共通点を感じるかもしれないが、成立時期も行政制度も異なる。

海と陸の双方を見渡せる位置は、軍事的な警戒だけでなく、人や物の移動を把握するうえでも重要だったと考えられる。行政的な性格を示す遺物と、この立地条件を合わせると、山城が地域支配に適した場所に置かれたという見方に説得力が増す。一方で、港湾施設や対外交易を直接示す資料が見つかったという記述は、今回の要約にはない。海が見えることだけで国際交易の拠点と断定するのは早い。

城壁の調査からは、外側と内側で異なる築き方も確認された。北側城壁の外面は、上に向かうにつれて石を内側へ引き込みながら積む方式だったという。内側では、土を突き固める「版築」で基礎を整え、その上に垂直に石を積む構造が確認された。版築は土を層ごとに締め固めて強度を高める技術で、日本の古代建築や土木を考える際にも登場する。

こうした構造は、統一新羅時代の城郭の特徴を示すものと評価されている。華やかな出土品ほど目立たないが、城壁の基礎や積み方は、築城の時期や技術を判断する重要な資料だ。どのように山の斜面に基礎を据え、外からの力に耐える壁を造ったのか。城を築き、維持した人々の作業が、地中の構造から読み取れる。

馬韓から朝鮮時代へ、重なり合う土地の記憶

今回の調査で確認されたのは、統一新羅時代の姿だけではない。異なる時期の活動を示す三つの文化層が見つかり、城壁の下からは馬韓時代の遺構と遺物が出土した。馬韓は、古代の朝鮮半島南西部を中心に存在した諸勢力のまとまりを指す。後の百済や新羅の時代とは区別される、より早い段階の地域社会を考えるための枠組みである。

石積みの城壁の下に古い遺構があるということは、統一新羅の築城以前から、その場所が利用されていたことを示す。ただし、その段階ですでに同じような山城が存在したとは限らない。古い遺構の種類や広がりが詳しく分からなければ、集落だったのか、別の用途を持つ場所だったのかを決めることはできない。先行する利用の存在と、その具体的な性格は分けて捉えたい。

東側の門は統一新羅時代に設けられ、その後、高麗から朝鮮時代にかけて階段状に補修されたことが分かった。高麗は新羅の後を受けて成立した王朝で、朝鮮王朝はさらにその後に続く。門には、最初に築かれた時期と、後世に形を変えて使われた時期の痕跡が重なっていたことになる。

もっとも、古い文化層と後世の補修跡があるからといって、その間ずっと同じ用途で使われ続けたと断定することはできない。利用が途切れた時期や、役割が変わった時期があった可能性もある。今回確認されたのは、この土地が複数の時代にわたって利用され、城の構造も改変されたということだ。山城の歴史は、一度の築城で完結するものではない。

日本への意味――大野城や鞠智城と比較する視点

日本にとって今回の発見が持つ意味は、まず古代の城の役割を比較する材料が増えたことにある。日本の古代山城も、敵を防ぐための壁だけで成り立っていたわけではない。代表的な比較対象には、福岡県の大野城や、熊本県の鞠智城がある。これらの遺跡では倉庫などの建物跡が知られ、防衛を支える物資の保管や運用も、城を理解する重要な論点となっている。

背景には、7世紀の東アジア情勢がある。663年の白村江の戦いで、百済の再興を支援した倭と百済側が唐・新羅連合軍に敗れた後、日本列島では西日本の防備が進められた。大野城などの築城は、こうした緊張の中に位置づけられる。朝鮮半島の政治変動は、日本の城や地域の体制にも関わる問題だった。

ただし、この歴史的な背景から、コダ山城と日本の古代山城に直接の技術交流や組織的なつながりがあったと結論づけることはできない。今回の報道には、日本製の遺物、日本人の活動、日本に向かう使節や航路を示す資料の記載はない。比較できるのは、城が軍事だけでなく行政や物資管理とどのように関わったかという問いであり、個別の交流関係が立証されたわけではない。

日本の読者にとって有益なのは、天守や合戦を中心とした「城」のイメージから一歩離れることだ。古代の城を、地域を治める仕組みの一部として見直せば、日本の国府・郡衙や交通路、倉庫群と城郭の関係にも目が向く。コダ山城の出土品は、その比較を具体化する可能性を持つ。

一方、今回の発掘が日本の観光市場や企業活動に影響したという情報は示されていない。日韓関係への直接的な効果を論じる根拠もない。現段階で確かにいえるのは、日本と韓国が同じ東アジア史の中に持つ古代遺跡を、共通の問いで読み解くための材料が加わったということだ。

武器や農具、瓦も欠かせない理由

出土した100点余りの遺物には、印章や帯のほか、軒先を飾る瓦である軒丸瓦などの瓦類、武器、農耕具、儀礼用の容器も含まれる。報道の見出しになりやすいのは「王」の印だが、遺跡全体の性格を知るには、それ以外の品々も欠かせない。建物、軍事、農耕、儀礼に関わる資料が、一つの山城から得られたことに意味がある。

ただし、農具があるから城内に耕地があった、儀礼用の容器があるから特定の祭祀施設があった、と直ちに判断することはできない。持ち込まれた品なのか、そこで日常的に使われたものなのかを考えるには、出土地点や周囲の遺構との関係が必要になる。同じ調査で見つかった品々も、すべて同時代の同じ活動に属するとは限らない。

逆に、そうした位置や年代の情報が整理されれば、遺物はより多くを語り始める。格式の高い品がどの建物に近い場所から出たのか、武器や農具はどの地層に集中するのか、文字瓦はどこに分布するのか。個々の品の価値だけでなく、その組み合わせが、山城に暮らし、働いた人々の活動を復元する手がかりとなる。

初発掘の先に問われる、発見の検証と保存

今回の調査は、海南郡が進める歴史文化圏整備事業の中で、主要遺跡であるコダ山城を対象に実施された。地域の歴史遺産をどう位置づけ、保存や活用につなげるかという行政上の課題とも関わる。ただし、公開施設の整備計画や観光客の受け入れ方針、今後の発掘日程について、提供された要約には具体的な記載がない。

今後の焦点は、まず出土品と遺構の関係がどこまで詳しく示されるかだ。印章と帯の年代や用途、文字瓦と古代地名のつながり、馬韓時代の遺構の性格、門の補修時期などを整理できれば、地方統治の拠点という評価はより具体的になる。誰が、いつ、どの範囲を治めるためにこの城を使ったのか。その問いに答えるには、目立つ一点の遺物だけでなく、調査成果全体の検討が必要だ。

日本の遺跡保存にも通じるのは、分かりやすく伝えることと、断定を急がないことの両立である。「王の印」という表現は関心を集めるが、「王の城」と言い換えれば、確認された事実を超えてしまう。発掘で分かったこと、可能性が高まったこと、まだ分からないことを区別して伝えることが、歴史遺産への長期的な信頼につながる。

コダ山城の初発掘が示したのは、山上の石壁の内側に、地方を治める活動が存在した可能性である。海と陸を見渡す立地、中央との関係をうかがわせる品々、時代を重ねて改修された門。それらを合わせて読むと、山城は戦争の遺跡にとどまらず、地域社会と国家を結ぶ場所として見えてくる。「王」の一字は、その全容を明かした答えではない。古代の地方支配を問い直す、重要な入口となった。

Source: Original Korean article - Trendy News Korea

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