K-POPの前史に響くサックス――吉屋潤、歯科医学と歌謡曲をつないだ韓国音楽家の軌跡

K-POPの前史に響くサックス――吉屋潤、歯科医学と歌謡曲をつないだ韓国音楽家の軌跡

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世界に届く韓国音楽、その前の時代を聴く

韓国の音楽と聞けば、日本ではまずK-POPのアイドルや、ドラマを彩る主題歌を思い浮かべる人が多いだろう。しかし、その音楽文化を現在の姿だけで捉えると、見えにくくなる歴史がある。サックスを手にジャズの舞台に立ち、歌手のために詞と曲を書き、編曲やレコード制作、映画音楽にも携わった音楽家たちの時代だ。吉屋潤(キル・オギュン、1927~1995年)は、そうした韓国大衆音楽の広がりを一人の生涯に刻んだ人物だった。

彼を単に「昔のヒット曲の作曲家」と紹介するだけでは、その輪郭を十分に伝えられない。出発点には歯科医学の勉強があり、若いころには在韓米軍関係の舞台で演奏した。朝鮮戦争には軍医として参加し、音楽活動を重ねた後も大学院で研究を続けた。医療と音楽、楽器演奏と歌づくり、個人の表現と都市の記憶。その間を行き来したことに、彼の特異さがある。

吉屋潤の歩みを振り返ることは、現在のK-POPの成功を一人の先人に結びつけることではない。彼から現代の特定のアーティストへ、直接の影響関係があると断定できる材料もない。むしろ、韓国の音楽が国境を越える音や複数の職能に支えられてきたことを、具体的な人生から考える作業だ。日本の昭和歌謡や戦後ジャズに親しんだ読者にとっても、決して遠い物語ではない。

北部に生まれ、植民地期の京城で歯科医学を学ぶ

吉屋潤は1927年2月27日、平安北道の寧辺郡に生まれた。現在の北朝鮮にある地域で、当時の朝鮮半島は日本の植民地支配下にあった。幼いころの名は崔鍾秀(チェ・ジョンス)。1931年に崔致禎(チェ・チジョン)へ改名した。後に韓国の音楽家として知られる人物の出身地が現在の北朝鮮側にあることは、分断後の国境だけでは当時の人々の移動や人生を説明できないことを物語る。

寧辺と平壌で学校に通い、1944年に平壌高等普通学校を卒業。同年3月、京城歯科医学専門学校に入った。「京城」は日本統治期に使われた現在のソウルの呼称である。日本の読者がこの学校名を読む際には、単なる古い地名としてではなく、植民地支配の下に教育制度が置かれていた時代の名称として理解する必要がある。音楽家として名を残す青年が、この時点で選んでいた専門分野は歯科医学だった。

予科2年生だった1945年8月15日、日本の植民地支配が終わった。韓国ではこの解放を「光復」と呼ぶ。日本で「終戦の日」として記憶される同じ日が、韓国では主権を取り戻す歴史の節目として語られる。吉屋潤の学歴に現れる学校名や制度の変化も、そうした歴史の転換の中にある。1950年3月にはソウル大学校歯科大学専門部を卒業しており、学生時代は植民地期末期から解放後へとまたがっている。

歯科学生が立ったジャズの舞台

歯科医学を学ぶ日々と並行して、吉屋潤は音楽家としての活動を始めた。経歴では、本科1年生だった1946年5月ごろ、米第8軍の舞台でジャズ・サックス奏者としてデビューしたとされる。白衣を目指す勉強と、観客を前にした演奏が同じ時期に進んでいたのである。学業を終えてから音楽へ転向したという一本道ではなく、二つの領域が早くから重なっていた。

韓国の大衆音楽史に登場する「米8軍の舞台」とは、米軍関係者を主な聴衆とする演奏や娯楽の場を指す言葉だ。米国の音楽に接する機会となり、演奏家にとっては実地で技術を磨く場でもあった。日本の読者には、戦後の米軍施設やクラブで日本のジャズ奏者が演奏した歴史を思い浮かべると、役割をつかみやすい。ただし、両国の政治状況や戦争経験まで同じだったということではない。

1949年6月ごろ、この舞台で初めて出会ったのが、作曲家の朴椿石(パク・チュンソク)だった。後の韓国歌謡を考える上で重要な音楽家との接点も、演奏の現場にあった。吉屋潤は1950年に歯科大学を卒業してからもサックスを吹き続けた。卒業が音楽活動の終わりにならなかったことからも、演奏が学生時代だけの余技ではなかったことが分かる。

サックス奏者という出発点は、その後の多方面にわたる仕事を見る際の手がかりになる。歌手に楽曲を提供する作詞家・作曲家だけでなく、音を組み立てる編曲家、録音作品を送り出す制作者でもあったからだ。ただし、個々の曲のどこにジャズの技法が使われているかは、楽譜や録音を確かめなければ論じられない。確認できるのは、演奏の現場と創作の現場をともに経験した音楽家だったという事実である。

朝鮮戦争では軍医に、休戦後は再び演奏家に

1950年に始まった朝鮮戦争は、朝鮮半島の社会を大きく変えた。吉屋潤もその渦中に入る。1951年3月、韓国陸軍の軍医中尉として任官し、1953年7月27日の休戦まで戦争に参加した。学生時代から積み重ねた歯科医学の専門性が、戦時下では軍医という役割につながった。軍医としての具体的な配属先や診療内容までは、今回の経歴資料からは分からない。

1953年3月には大尉に昇進し、翌1954年6月に大尉で予備役となった。その後もジャズ・サックス奏者として活動し、韓国ジャズクラブの会長も務めた。ここにあるのは、戦争を経て演奏活動を継続したという歩みだ。戦争体験が特定の歌詞や旋律にどう表れたかについて、本人の発言などの裏付けなしに物語を付け加えることはできない。

日本の戦後音楽との比較でも、この時期の違いは押さえておきたい。日本では1945年以降が一般に「戦後」と呼ばれる一方、朝鮮半島では植民地支配からの解放後に分断が進み、さらに大規模な戦争が起きた。吉屋潤の経歴は、「戦後、米国の音楽が広まった」という共通の説明だけでは捉えきれない。演奏家としての時間に、実際の軍務が重なっていたのである。

歌手に言葉と旋律を渡す仕事

作曲家としての具体的な仕事の一つが、1963年に歌手の玄仁(ヒョンイン)へ提供した「내 사랑아」だ。日本語では「愛する人よ」といった呼びかけに近い題名で、吉屋潤が作詞と作曲の両方を担当した。自ら楽器で表現するだけでなく、別の歌い手の声を通じて聴衆に届ける作品も手がけていた。演奏家と作者という二つの立場を併せ持っていたことが、ここでも見て取れる。

日本の歌謡曲に置き換えれば、歌手の名前で親しまれる曲の背後に、作詞家、作曲家、編曲家の仕事があるという構図はなじみ深い。吉屋潤は、その複数の役割を担った。さらにレコード制作や映画音楽監督としても活動したとされる。歌を作って渡すところだけでなく、音楽を作品として形にする過程にも関わった人物として捉えると、その活動範囲が理解しやすい。

1966年には歌手のパティ・キムと結婚し、7年後に離婚した。その後、全蓮蘭(チョン・ヨンラン)と再婚している。著名な歌手との結婚は人物紹介で目を引くが、私生活だけを軸に音楽歴を説明すると、演奏や制作、研究といった仕事が見えにくくなる。パティ・キムとの関係は、後に彼の葬送の場で歌が果たした役割を考える際にも、重要な背景となる。

ここで大切なのは、作品を知ることと、人物の逸話を知ることを分けて考えることだ。誰と結婚したかは生涯の一部である。しかし、音楽家として何を残したかをたどるには、どの曲で詞や曲を担当し、どんな立場で制作に関わったのかを確かめる必要がある。吉屋潤の幅広い肩書は、その作業の入口になる。

サックスと歯科医学が交わった修士論文

吉屋潤の経歴の中でも、ひときわ目を引くのが1981年の修士号取得だ。慶熙大学校大学院の歯科医学科で学び、提出した論文は「管楽器奏者の咬合状態に関する研究」だった。咬合とは、上と下の歯のかみ合わせのこと。難しく見える題名を言い換えれば、管楽器を吹く人のかみ合わせを扱った歯科医学の研究である。

サックスなどの管楽器は、息を送るだけで音が出るわけではない。唇や口の周囲の筋肉を使い、マウスピースとの接し方を調整して演奏する。口元が楽器を扱う重要な部分であることを考えれば、歯科医学との接点は理解できるだろう。自ら管楽器を演奏してきた人物が、その奏者を研究対象に選んだという点で、二つの専門領域が論文の題名にも表れている。

もっとも、題名だけから研究結果を推定することはできない。サックスの演奏が歯並びに特定の変化を起こすと結論づけたのか、演奏者にどのような傾向が認められたのかといった点は、論文本文の確認が必要だ。演奏する人に治療上の助言を与えられる資料として、安易に扱うべきでもない。ここで確かめられるのは、音楽活動の傍ら、管楽器奏者の身体に関わる問題を歯科医学の研究対象としたことである。

現在なら、異なる専門分野を結ぶ「学際的」な活動と呼びたくなる経歴だ。ただ、流行の言葉を当てはめる前に、長い時間の積み重ねに注目したい。1944年の歯科医学の学び始めから、1981年の修士号取得まで、約37年がたっている。音楽家として活動しても、若いころに学んだ分野との関係は途切れなかった。二つの道を持つことが、一時的な迷いではなく、生涯の特徴となった。

日本から見える接点――「吉屋潤」という名前と戦後音楽

日本の読者にとって、直接の接点となるのが活動名である。彼は韓国語で読む「キル・オギュン」のほか、日本式の芸名「ヨシヤ・ジュン」、英語表記の「June Yoshiya」も用いた。同じ「吉屋潤」という漢字でも、日本語と韓国語では読み方が変わる。日本語の資料で人物を調べる際には、漢字、カタカナ、アルファベットの表記を照合することが、別人との混同や見落としを防ぐ手がかりになる。

ただし、日本式の芸名があるという事実だけで、日本での活動期間や人気、レコード販売の実績を説明することはできない。今回の資料には、日本市場における具体的な売り上げ、日本企業との契約、日本の歌手との共演などの記載はない。現在、日本で再評価の動きが広がっているとする根拠も示されていない。日本との結びつきを考える際にも、確認できる接点と、今後調べるべき事柄を区別する必要がある。

その上で、日本の聴き手にとって意義があるのは、韓国音楽を現在のアイドル文化だけに限らずに捉えられることだ。米軍関係の舞台とジャズ、歌手を支える職業作家、都市を題材にした歌。これらは日本の戦後音楽を理解する際にも登場する要素である。共通点を足場にすれば、隣国の古い歌謡曲は、予備知識のない異文化というより、比較しながら聴ける音楽史になる。

一方で、似ているからこそ歴史の違いを省略しないことも重要だ。朝鮮半島の植民地経験や分断、朝鮮戦争は、日本の戦後ジャズ史とそのまま重ならない。日韓の音楽交流を豊かに理解するには、互いの曲を「どこか懐かしい」と感じるだけでなく、その曲が生まれた社会を知る必要がある。吉屋潤の人生は、親しみやすさと歴史的な距離の両方を示している。

葬送で歌われた「ソウルの賛歌」

吉屋潤は1995年3月17日に亡くなった。68歳だった。同月21日、ソウルの大学路にあるマロニエ公園で、芸能関係者の協会葬として告別式が営まれた。大学路は劇場などが集まる文化地区として知られる。その公園が、一人の音楽家を送り出す場所になったのである。

出棺の際、パティ・キムは涙を流しながら「서울의 찬가」、日本語で「ソウルの賛歌」を歌った。かつての伴侶が歌で別れを告げたという場面は、吉屋潤をしのぶ記述の中でも印象深い。ただ、その時の思いを本人の言葉なしに補うことはできない。確かなのは、彼にゆかりのある歌が、人生の終わりを見送る場で実際に歌われたことだ。

歌は、発表された時だけに意味を持つものではない。ある場で歌い直されることで、聴く人々にとって別の記憶を帯びることがある。「ソウルの賛歌」も、この告別式では都市への賛歌であると同時に、音楽家を悼む歌となった。日本でも、故人にゆかりのある楽曲が追悼の場で流れ、その後は曲を聴くたびに人の姿が浮かぶことがある。その感覚は、韓国のこの場面を理解する助けになるだろう。

墓所は京畿道安城市のカトリック公園墓地に設けられた。また、死後には文化勲章の宝冠章が授与された。韓国の文化勲章は文化芸術への功績をたたえる制度で、日本の文化勲章とは仕組みが異なるため、単純な序列の比較はできない。それでも、彼の活動が公的にも顕彰されたことを示す出来事である。

都市に残る歌碑、音楽史をたどる入口に

1995年10月23日、ソウル市は世宗路公園に「ソウルの賛歌」の歌碑を建てた。葬送の場で歌われた曲が、今度は街の中に形ある記念物として置かれたことになる。録音や楽譜とは違い、歌碑は音を発しない。それでも、そこに刻まれた曲名や言葉は、通りかかった人に歌と作者の存在を伝える。

日本にも、歌謡曲や童謡、唱歌にちなんだ歌碑が各地にある。歌と土地を結びつけ、個人の記憶を地域で共有する装置という点では共通している。「ソウルの賛歌」の歌碑も、吉屋潤の業績を個人の音楽歴だけに閉じ込めず、ソウルという都市の記憶の中に置くものと見ることができる。ただし、現在の設置状況や周辺の案内については、訪問前に別途確認が必要だ。

吉屋潤を通じて見えてくるのは、一つの肩書では整理できない韓国音楽の歴史である。歯科学生がジャズを演奏し、軍医として戦争を経験し、歌手に詞と曲を提供する。さらに、管楽器奏者のかみ合わせを研究し、死後にはその歌が都市の公園に刻まれる。これらを無理に一つの成功物語にまとめなくても、並べてみるだけで活動の厚みは伝わる。

今後、その足跡をより具体的に知るには、録音に記された演奏者や編曲者の名、楽曲の制作資料、学位論文などを照合していくことが重要になる。とりわけ日本との接点を論じるなら、芸名の存在にとどまらず、日本側に残る公演記録や音源などの裏付けが求められる。現在の韓国音楽に親しむ日本の聴き手にとって、吉屋潤は過去を飾るだけの名前ではない。隣国の音楽を、歌う人だけでなく、吹く人、書く人、作る人から聴き直すための入口なのである。

Source: Original Korean article - Trendy News Korea

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