
記事の理解を助けるための画像
農村と都市を行き来した少年時代
金裕貞(キム・ユジョン)は1908年2月12日に生まれ、1937年3月29日に肺結核で亡くなった、日本統治期の朝鮮を代表する小説家の一人だ。随筆や詩も手がけたが、故郷の農村や都市で目にした貧困を、笑いと哀しみが同居する短編小説へと昇華したことで知られる。
本貫は清風金氏で、8人きょうだいの末子だった。出生地については異なる証言もあるが、本人は随筆で江原道の山村を故郷と記している。先祖代々の地は現在の江原道春川市にある実レ村(シルレマウル)だった。家系は朝鮮王室とも縁があり、祖父と父はいずれも科挙の進士試験に合格し、官職に就いている。
しかし、金裕貞は幼くして両親を相次いで亡くした。兄が財産を管理するようになってから家運が傾き、一家はソウル市内を転々とした。兄の放蕩ぶりは、後の短編『兄』の題材になったとされる。
私塾で漢字の教本や歴史書を学んだ後、ソウルの徽文高等普通学校に進学した。野球やサッカー、スケート、ボクシング、柔道に親しみ、小説や映画、バイオリンも好んだ。校内にハーモニカのサークルをつくり、映画館・団成社の記念行事で独奏したこともあった。卒業後の1930年に延禧専門学校へ入学したが、同年に除籍された。
病と挫折のなかで向き合った農村
経済的な困窮と病は、青年期の金裕貞につきまとった。痔の手術を受けたほか、胸膜炎や肺結核を患った。徽文高等普通学校の卒業前後には妓生の朴緑珠に思いを寄せ、手紙や血書、贈り物を送ったものの受け入れられず、待ち伏せや脅迫にまで及んだ。
その後、春川へ戻った金裕貞は、兄を相手取った財産分配訴訟を準備する一方、実レ村の農民が置かれた厳しい暮らしを間近で見た。1931年には普成専門学校に入ったものの再び退学し、忠清道の鉱業所で現場監督として働いた。健康悪化のため故郷へ戻ったが、鉱業所や金鉱をめぐる経験は、後に『金を掘る豆畑』『ノダジ』『金』などの素材となった。
1930年から1932年にかけては、村の若者らと農友会や婦人会を組織した。故郷の家の近くに小屋を建てて夜学を開き、農村啓蒙運動に取り組んだ。農友会は後に簡易学校「錦屏義塾」として認可され、金裕貞は文盲をなくすための教育活動を続けた。生誕100年を記念した春川文化放送のドキュメンタリーは、彼が小作農にも敬語で接していたと伝えている。
わずか2年余りの濃密な作家生活
金裕貞は1932年に最初の作品『沈清』を完成させ、翌年には『山里の旅人』などを発表した。本格的な文壇デビューは1935年で、『夕立』が朝鮮日報の新春文芸で1等に選ばれ、『ノダジ』も中央日報の新春文芸で佳作に入った。同年には『金を掘る豆畑』『餅』『山里』『ならず者』『春・春』などを相次いで発表した。
1936年には代表作の一つ『椿の花』、1937年には『炎天下』などを発表した。作家として本格的に活動した期間はわずか2年余りだったが、約30編の短編、未完の長編1編、翻訳小説1編を残した。
文学グループ「九人会」に加わり、李箱らと交流した。学生時代からの友人・安懐南をはじめ、多くの文学仲間が病と貧困に苦しむ金裕貞を支えた。未完となった『豆浦伝』の後半は、死後に玄徳が書き継いだ。
生活は最後まで安定しなかった。薬代を得るため原稿依頼を引き受けながら、金が入ると酒に使うこともあった。雑誌で文章を読んだだけの朴鳳子に、面識のないまま31通の求愛の手紙を送ったが、返事はなかった。
笑いの奥にある貧困の現実
金裕貞の作品世界は、自身の体験と密接につながっている。『春・春』や『椿の花』には実レ村の貧しく素朴な人々が登場し、『ノダジ』『金を掘る豆畑』は一獲千金を夢見て金鉱に望みを託す人々を描いた。都市を舞台にした作品には、都会で困窮した作者自身の境遇が投影されている。
愚直で純朴な人物、予想外の展開と反転、口語や俗語を生かした表現が作品の特徴だ。登場人物の振る舞いは読者の笑いを誘うが、その笑いは貧しく悲惨な現実と切り離せない。温かな人間味と喜劇性の背後に、深い哀しみが横たわっている。
『椿の花』では、田園の風景のなかで思春期の男女が互いへの思いと自我に目覚めていく様子を、軽妙な筆致で描いた。農村を理想化するのではなく、そこで生きる人々の弱さやしたたかさを含めて捉えた点に、金裕貞文学の魅力がある。
読書の幅も広かった。少年時代にはバイロンの詩集を持ち歩き、ドストエフスキー、チェーホフ、ゴーゴリ、魯迅らの作品を身近な人に薦めた。印象深い本として朝鮮古典『洪吉童伝』とジェームズ・ジョイスの『ユリシーズ』を挙げ、ニーチェやマルサス、クロポトキン、マルクスにも言及している。
29歳、最後まで消えなかった執筆への思い
肺結核は1936年秋から冬にかけて悪化した。義姉の狭い借家で暮らした後、京畿道広州郡にあった姉婿の家へ移った。死の11日前にあたる1937年3月18日、友人の安懐南に宛てた文章で、もう一度立ち上がりたい、再び探偵小説を翻訳したいと訴え、友の腕に頼って光を見いだしたいと記した。
金裕貞は同月29日午前6時30分、肺結核のため29歳で亡くなった。遺体は京畿道広州からソウルの弘済洞に運ばれ、火葬された。作品集『椿の花』は1938年、『金裕貞全集』は1968年に刊行された。
春川市は生家を復元して展示館を整備し、2002年に金裕貞文学村を開設した。実レ村にある京春線の新南駅も、2004年に金裕貞駅へ改称された。日本統治期という厳しい時代を生きた金裕貞は、農村と都市で出会った貧しさを、単なる悲劇ではなく、笑いと哀しみが交差する物語として後世に残した。
コメント
コメントを投稿