ムクゲと教育に託した独立精神 韓国の言論人・南宮檍の生涯

ムクゲと教育に託した独立精神 韓国の言論人・南宮檍の生涯

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南宮檍(ナムグン・オク、1863~1939)は、大韓帝国末期から日本統治期にかけて活動した韓国の言論人、教育者、独立運動家だ。新聞を通じて外国勢力の侵略に警鐘を鳴らし、学校では歴史やハングルを教えた。晩年には朝鮮半島を象徴する花として親しまれるムクゲの苗木を育て、全国に広めた。

通訳官から改革官僚へ

1863年、漢城府(現在のソウル)に生まれた。漢文を学んだ後、米国人が運営する英語学校に入り、税関の見習いを経て官僚となった。1887年には国王・高宗の通訳官を務め、全権大臣に同行して英国、ロシア、ドイツへ向かう途中、香港に滞在した。清朝の妨害により足止めが約2年に及び、その後、本国へ呼び戻された。

帰国後は地方官などを経て、1894年の甲午改革で内務衙門土木局長に就任した。ソウル中心部の鍾路や貞洞、南大門周辺の道路整備、現在のタプコル公園にあたるパゴダ公園の造成を担当した。学校では英文法と朝鮮史も教えたが、1896年、高宗がロシア公使館へ移った「俄館播遷」を受けて官職を退いた。

新聞で侵略の危機を訴える

南宮檍は1896年、徐載弼(ソ・ジェピル)や尹致昊(ユン・チホ)らによる『独立新聞』の創刊に加わり、記者、論説執筆者として活動した。同年には独立協会の設立にも参加し、専制君主制を立憲君主制へ改め、議会を設ける運動を進めた。1898年11月には他の指導者らとともに逮捕された。

これに先立つ同年9月には『皇城新聞』を創刊し、社長に就任。新聞を日刊化し、漢字とハングルを併用する文体で国民啓発を図った。1900年、外国紙が報じたロシアと日本による朝鮮分割説を掲載し、両国の侵略意図を警告したため拘禁された。1902年にも、日本の進出や露日協定を批判する社説を理由に逮捕され、激しい拷問を受けた。翌年には義兵蜂起を企てたとの疑いで再び拘束されたが、事実関係が明らかになって釈放され、新聞社長を辞任した。

国を守る道を教育に求める

1905年、高宗の要請で星州牧使となったが、同年11月の第二次日韓協約で韓国の外交権が奪われると辞職した。翌年、江原道襄陽の郡守に就くと、近代的な学校や病院の誘致、道路整備を進め、1907年には峴山学校を設立した。日本がハーグ密使事件を理由に高宗を退位させ、第三次日韓協約を結ぶと、再び官職を離れた。

その後は大韓協会の会長や、江原道の啓発団体・関東学会の会長を務め、機関紙や教育雑誌を発行した。1910年の韓国併合後は教育現場に移り、培花学堂でハングル、歴史、家庭科を教えた。教科書の執筆や愛国的な歌詞の普及にも取り組み、ハングルの書体を考案して広める活動も続けた。

ムクゲの苗木を全国へ

健康を崩した南宮檍は1918年、先祖ゆかりの江原道洪川郡へ移り、教会を設立して伝道に携わった。翌年には教会と牟谷学校を建てた。読み書きのできない人を減らすため、若者だけでなく30代、40代の住民も受け入れ、昼は教師、夜は地域の指導者、週末は教会の説教者として活動した。

学校内にはムクゲの苗畑を設け、育てた苗木を各地へ送った。労働や愛国心を題材にした賛美歌、詩、歌も作り、教会やキリスト教系学校に普及させた。「働きに行こう、働きに行こう」で始まる『三千里半島錦繍江山』をはじめ、『ムクゲの園』『朝鮮の歌』『朝鮮地理歌』などが広く歌われた。

日本統治下の弾圧と晩年

日本側は南宮檍が育てたムクゲ約8万本を焼き、学校を公立校へ強制的に編入した。1933年11月には、キリスト教系の独立運動秘密結社「十字党」を組織して活動したとして日本警察に逮捕され、8カ月間投獄された。朝鮮総督府の警務、教育当局による懐柔を拒み、拷問を受けた。

高齢を理由に釈放された後は開城で療養し、洪川へ戻った。妻の葬儀を終えた後、弟子や知人に対し、自分が死んだら墓を造らず、果樹の下に埋めて肥料にしてほしいとの言葉を残した。1939年4月5日、拷問の後遺症により死去した。

韓国政府は1962年に大統領表彰、1977年に建国勲章独立章を追贈した。洪川郡には現在、南宮檍を記念する施設がある。官僚として都市基盤を整え、言論人として日本を含む外国勢力の侵略を警告し、教育者として学校や教材をつくった。その歩みは、武力ではなく言論と教育、そしてムクゲという身近な植物を通じて独立精神を伝えようとした生涯だった。

Source: Original Korean article - Trendy News Korea

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