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分断と戦争を越えて画家の道へ
「水滴の画家」として知られる韓国の美術家、金昌烈(キム・チャンヨル、1929~2021年)は、朝鮮半島の分断と朝鮮戦争に翻弄されながら創作を続け、フランスを拠点に世界へ活動の場を広げた。
平安南道孟山郡に生まれ、書に通じた祖父のもとで筆に親しんだ。学生時代には叔父からデッサンを学んだが、日本の植民地支配からの解放後、政治的な混乱のなかで当局に拘束され、指名手配も経験した。16歳で家族と学校を残して南へ渡り、ソウルで先に移っていた父と再会。その後、残る家族とも偶然再会した。
検定試験で進学資格を得て美術研究所に通い、1948年にソウル大学美術大学へ入学した。しかし、1950年に朝鮮戦争が始まり、学業は中断。義勇軍に連行されて後方部隊へ送られたものの途中で脱走し、ソウルが奪還されるまで空き家に身を潜めた。戦後に復学を試みたが、かつて通った研究所の経歴が問題視され、大学への復帰は認められなかった。警察官として働きながら、独学で絵を描き続けた。
韓国現代美術の前線からパリへ
1957年、金昌烈は張成旬(チャン・ソンスン)、河麟斗(ハ・インドゥ)らと美術家のグループを結成した。後に韓国現代美術家協会と呼ばれるようになり、当時の世界的な潮流だったアンフォルメルを韓国で展開する中心の一つとなった。
警察専門学校の図書担当として勤務していた時期には、日本から入ってきた画集や美術書を通じて海外の動向を学んだ。退職後は教師をしながら制作を続け、1961年のパリ・ビエンナーレに韓国代表の一人として出品。サンパウロ・ビエンナーレやロンドンの世界青年画家大会にも参加した。
1966年、ロックフェラー財団の研究費を得て渡米した。研修後も米国に残り、ネクタイ工場などで働きながら4年間制作を続けた。1969年には、メディアアートの先駆者として日本でも知られる白南準(ナムジュン・パイク)の助けでパリの前衛芸術祭に参加。これを機にニューヨークを離れ、パリに拠点を移した。
貧しいアトリエで生まれた水滴
転機は1972年、パリ近郊パレゾーのアトリエで訪れた。気に入らなかった油絵の絵の具をはがして再利用しようと、金昌烈がキャンバスの裏に水をかけたところ、表面にできた水滴が朝日に輝いた。その光景に強く心を動かされたことが、水滴画の出発点になったという。
近くの骨董家具店で開いた個展は、偶然通りかかったパリの日刊紙「コンバ」の記者アラン・ボスケの目に留まり、記事で紹介された。同じ年には招待展「サロン・ド・メ」に水滴作品《イベント・オブ・ナイト》を出品し、本格的なデビューを果たした。その後は水滴を主題とする展覧会を各地で開催し、2004年にはフランス国立ジュ・ド・ポーム美術館の招待展で30年にわたる仕事を振り返った。
天字文、郷愁、そして立体表現
水滴にたどり着く以前の1965~71年ごろには、米国のポップアートやミニマリズムの影響を受け、反復する形を機械的、抽象的に配置した。1970年代に入ると、一つ、あるいは複数の水滴を画面に配する作品へと移った。
1980年代には、粗い麻布の上に、本来そこにはとどまれないはずの透明な水滴を写実的に描いた。後半からは背景に漢字学習書の「千字文」を取り入れ、東洋思想を表現。海外生活のなかで募った郷愁を、幼いころ祖父のそばで書いた千字文に託したと解釈されている。1990年代の《リカレンス》連作では、水滴がゆがみ、つぶれ、消えかかるような表現も現れた。
2000年代には色彩と形式をさらに広げた。空色の背景と千字文を組み合わせた《ベル》や、鮮やかな黄色を使った《イエロー・アース》を制作。水を満たした大きな水滴形のガラス瓶を天井からつるす《メディテーション》では、インスタレーションにも挑んだ。
物質と幻想が重なる一滴
金昌烈は、西洋とは異なる自らの出発点を考えた末に水滴へ行き着いたと説明し、それは仏教の「空」や道教の「無」にも通じると語った。美術評論家の李逸(イ・イル)は、透明な水滴を架空の光と影で生み出す視覚的な仕掛けと捉え、下地を塗らない布が本物らしさを高めていると評価した。美術家の李禹煥(イ・ウファン)も、物質と幻想を重ねることで新たな視覚表現を示したと評している。
作品は韓国国立現代美術館、パリのポンピドゥー・センターをはじめ、韓国、フランス、米国、日本、ドイツ、ベルギー、カナダなどの美術館に収蔵されている。2016年には、かつて警察官として勤務した済州島に済州道立金昌烈美術館が開館した。
帰国後はソウル・城北洞の自宅で暮らし、2021年1月5日に91歳で死去した。遺骨は火葬後、済州道立金昌烈美術館に樹木葬で納められた。激動の時代を生き、朝日にきらめく一滴から独自の世界を築いた生涯だった。
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