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近代韓国仏教を代表する禅僧
満空(マンゴン、1871~1946年)は、朝鮮王朝末期から日本の植民地統治期にかけて活動した僧侶であり、独立運動家でもある。鏡虚(キョンホ)の法脈を継ぎ、話頭と呼ばれる問いに集中する看話禅を広めた。韓国仏教では釈迦以来、第76代の祖師と位置づけられている。
本名は宋道岩、法名は月面で、満空は法号にあたる。1871年旧暦3月7日、現在の全北特別自治道井邑市に生まれた。1883年、金堤の金山寺で仏像に心を動かされ、出家を決意。翌年、鏡虚の導きで瑞山の天蔵寺に入り、沙弥十戒を受けた。
鐘の音を機に悟り、後進を育成
満空は「すべてのものが一つに帰るなら、その一つはどこへ帰るのか」という話頭を抱え、ひたすら坐禅に取り組んだ。1895年、牙山の鳳谷寺で明け方の梵鐘を聞き、大悟したと伝えられる。1904年には鏡虚から法を受け継ぎ、礼山の徳崇山に金仙台を設けて弟子の指導を始めた。
満空の看話禅は、理論や思弁に偏らず、無念・無心の境地で自ら話頭を探究するものだった。弟子には趙州の「無字」の話頭に専念するよう説き、坐禅を自由と慈悲を求める重要な修行と考えた。指導では沈黙や一喝、棒、形式にとらわれない対話、円相なども用いた。
人間の真の本質は宇宙万物の本体と異ならず、仏教の核心は自らの心を悟ることにあると説いた。修行には本人の努力だけでなく、優れた師、適切な道場、共に学ぶ仲間が必要で、とりわけ師との出会いを重視した。
徳崇山を拠点に禅仏教を再興
満空は徳崇山の修徳寺、定慧寺、見性庵のほか、瑞山・安眠島の看月庵などを再建した。1920年代初めには禅学院の設立運動に加わり、禅僧の経済的自立を目指す禅友共済会運動にも参加した。
1934年に財団法人朝鮮仏教禅理参究院が設立されると理事となり、その後、理事長に選ばれた。門下からは宝月、田岡、古峰、慧庵、春城、金烏ら多くの僧侶が育ち、法喜、満性、一葉ら尼僧も教えを受けた。法脈は鏡虚から満空、慧庵、妙峰へと受け継がれ、現代韓国仏教の大きな流れを形づくった。
日本式の仏教政策に正面から反対
植民地統治期、満空は朝鮮総督府の仏教政策と、朝鮮仏教を日本仏教式に変えようとする動きに強く反発した。1937年、麻谷寺の住職だった満空は、総督府で開かれた朝鮮31本山住職会議で当局の方針を厳しく批判した。
南次郎総督に対しては、前総督の寺内正毅について、敬虔な仏教徒を名乗りながら朝鮮仏教を破壊したため地獄に落ちるだろうと皮肉り、「われわれが地獄から救わなければ誰が救うのか」と語って冥福を祈ろうとした。1940年に創氏改名が実施されるとこれを拒み、修行と坐禅に専念した。翌年の全国高僧法会では、戒律を正しく守り、禅を振興することで韓国仏教の正統な流れを継ぐよう訴えた。
光復を見届けた最期
満空は1940年代、徳崇山の頂に建てた転月寺で暮らし、1945年の日本統治からの解放を迎えた。1946年10月20日、鏡を見ながら「満空よ、70年間、私と苦楽を共にしてご苦労だった」とつぶやき、眠るように入寂したと伝えられる。75歳、僧歴62年だった。
荼毘は徳崇山で営まれ、遺骨を納めた満空塔が金仙台近くに建てられた。没後には『満空語録』が編まれ、『満空法語』『顕揚賣狗』などの著作も伝わる。看話禅の普及と後進の育成に尽くし、総督府の統制に抗して朝鮮仏教を守ろうとした生涯は、韓国近代仏教史の重要な一章となっている。
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