本を求め、官職を退けた朝鮮の思想家・崔漢綺 経験と科学で時代を先取り

本を求め、官職を退けた朝鮮の思想家・崔漢綺 経験と科学で時代を先取り

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読書と研究を選んだ生涯

崔漢綺(チェ・ハンギ、1803~1879年)は、朝鮮王朝後期の実学者であり、地理学者、哲学者、著述家でもあった。現在の北朝鮮・開城に生まれ、幼少期から性理学を学び、金正喜(キム・ジョンヒ)らの門下で修学した。朴趾源(パク・チウォン)や徐敬徳(ソ・ギョンドク)の学問にも影響を受け、暮らしに役立つ知識を重んじる実学や「気」の哲学へ関心を広げた。

1825年に科挙の生員試と進士試に合格したが、制度の弊害を目の当たりにして官界入りを断念した。1841年には最高官職の領議政から繰り返し登用を持ちかけられたものの、名誉を得るために官職に就くことはできないとして断った。その後は私塾で子どもたちを教えながら、儒学、歴史、数学、地理など幅広い分野の読書と執筆に生涯を注いだ。

中国から新刊が入るといち早く手に入れ、高価な本も読み終えれば安値で手放した。財産が減り、地方で農業をするよう勧められても、農業以上に本を入手することが大きな望みだとして、都の漢城を離れなかった。

経験を知識の出発点に

崔漢綺の思想の中心にあったのが、経験と実証を重視する「気学」だ。人間の知識は生まれながらに備わるのではなく、心と外界が目や耳、鼻、口などの感覚器官を通じて接することで形成されると考えた。複数の感覚で繰り返し確かめた知識ほど確実性が高いとし、経験と記憶を基に思考を広げる働きを「推測」と説明した。

形がなく直接確かめにくい「理」よりも、その動きや痕跡を観察できる「気」を重視した点も特徴だ。宇宙や自然、さらには人間社会の変化を気の運動として捉え、人間は知覚、記憶、推測の能力を高めながら自然の原理を理解すべきだと説いた。朱子学だけを絶対的な真理とする閉鎖的な姿勢には批判的で、「学問が生活の中にあれば実の学問となり、生活から離れれば虚の学問になる」と、実生活に役立つ知識を求めた。

世界地理と西洋科学を吸収

崔漢綺は、朝鮮を代表する地理学者で「大東輿地図」を作った金正浩(キム・ジョンホ)とも緊密に交流した。2人で中国から入った世界地図をナツメの木版に刻み、金正浩が1834年に地図「青邱図」を完成させると、崔漢綺が序文にあたる文章を寄せた。

1857年の「地球典要」では、中国で刊行された地理書を基に各国の地理、歴史、産物、学問を整理した。地球が球体で自転と公転をし、太陽の周囲を回るという地動説も紹介している。当時は荒唐無稽と見なされることもあった知識を取り込み、東洋哲学と西洋科学を結び付けようとした。

物理学や医学への関心も深かった。音を気の振動が広がる現象と捉え、反射や光の屈折について論じたほか、温度計や湿度計にも独自の名称を与えた。英国の天文学者ハーシェルの著作を基にした中国語書籍を翻案し、英国人宣教医ホブソンの医学書を編集して西洋医学を紹介した。解剖学や病理学では西洋医学が東洋医学より発達しているとも指摘した。

身分を問わない教育と登用

教育を特権層だけのものとする考えにも反対した。庶民や女性にも学ぶ機会が必要だとし、性理学だけでなく、数学、物理、天文学、医学、商業を教え、農業、工業、紡績、機械技術も奨励すべきだと主張した。弟子には商売や医術、手工業の技術を身につけるよう促した。

1860年の著書「人政」では、家柄や学歴ではなく実際の才能と能力を基準に人材を登用すべきだと論じた。障害のある人にも教育と労働の機会を保障する必要があると説くなど、当時としては先進的な人材観を示した。

通商と開放を唱える

高宗の即位後、西欧の資本主義に関する情報に触れると、外国との通商と開放を主張した。外国と対等に交流し、西洋の科学技術を選択的に受け入れるべきだとの立場だった。少数の知識人は賛同したが、主流派の儒学者から批判され、鎖国政策を進めた興宣大院君にも快く受け止められなかった。

1871年、米国艦隊と朝鮮軍が衝突した辛未洋擾の際には、当局から軍事面の助言を求められた。崔漢綺は、西洋兵が小型で頑丈な銃砲を使うことや、大軍を投入する可能性に備える必要があると指摘した。戦地へ赴くより、漢城で書籍と戦況報告を分析し、対策を示す方がよいとも提案した。

死後に進んだ再評価

崔漢綺は農業、数学、天文学、地理学、医学、哲学、人事行政にまたがる膨大な著作を残した。千巻余りを執筆したとの記録もある。晩年は本を担保に入れ、書画や作品を売って暮らしながら、収入の多くを再び書籍の購入に充てた。

1872年、息子が高宗の侍従となった後に特別な恩典で官位を得た。1875年にも官職に任命されたが、病気を理由に辞任し、1879年6月21日に亡くなった。生前は気学や開放論が論争と排斥の対象となったが、著作は中国でも刊行された。朝鮮王朝の終焉後に研究が進み、韓国では1960年代から本格的な再評価が始まった。経験と実証を重んじ、実学から開化思想へ橋を架けた人物として位置づけられている。

Source: Original Korean article - Trendy News Korea

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