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高麗末期を代表する学者
李穡(イ・セク、1328~1396年)は、高麗末期の官僚であり、朝鮮王朝初期の思想界にも大きな影響を残した学者だ。号は牧隠(モグン)。鄭夢周(チョン・モンジュ)、吉再(キル・ジェ)とともに、高麗末を代表する3人の儒学者「三隠」の一人に数えられる。
現在の慶尚北道盈徳郡に生まれ、父の李穀や学者の李斉賢から学んだ。1348年には当時の中国・元へ渡り、国子監で性理学を研究。帰国後は程顥や朱熹の学問、礼法を講じ、鄭夢周、鄭道伝(チョン・ドジョン)、李崇仁、権近、河崙らを育てた。この顔ぶれには、高麗への忠節を貫いた人物と、新王朝・朝鮮の建国に加わった人物の双方が含まれている。
官僚として改革を提言
李穡は1352年、恭愍王に土地制度の改革や国防計画、教育振興、仏教の抑制などを盛り込んだ意見書を提出した。その後、高麗と元の科挙で相次いで優秀な成績を収め、元では翰林院関係の官職や国史編纂に携わった。帰国後も人事、歴史編纂、教育などの要職を歴任した。
1357年には、儒教の礼に基づく三年喪の導入を提案し、実施に導いた。1361年に紅巾軍が侵入した際には、南へ避難する恭愍王に同行し、その功績で一等功臣となった。
成均館を立て直し、性理学を広める
李穡の最大の功績とされるのが、国立教育機関である成均館の再興だ。1367年、成均館の長官に当たる大司成を兼任すると、金九容、鄭夢周、李崇仁らを教官に登用し、明倫堂で講義を行った。朱子学、程朱学とも呼ばれる性理学の普及に力を注ぎ、朝鮮初期に性理学が国家理念として成長する土台を築いた。
李穡は生涯に5回、科挙の試験官を務め、計132人を選抜した。門下からは鄭夢周や吉再だけでなく、朝鮮建国を主導した鄭道伝、河崙、権近らも輩出された。政治的な立場は分かれても、その学統は朝鮮時代の性理学へと受け継がれた。
一方、仏教については歴史的な存在として理解し、儒教との融合による再興を唱えながらも、弊害の是正を求めた。僧侶の数を制度によって制限するなど、急進的な排斥ではなく段階的な改革を志向した。
王朝交代に抗した高麗の臣下
李穡は禑王の師を務め、1388年の鉄嶺衛問題では明との和平を主張した。李成桂(イ・ソンゲ)が軍を引き返した威化島回軍で禑王が退位すると、曺敏修とともに昌王を擁立。明に使節として赴き、李成桂勢力を抑えようとしたが、政権を握った一派によって流刑や投獄を繰り返し受けた。
土地制度改革をめぐっては私有地の廃止に反対した。多くの土地を持つ階層に属していた李穡自身の限界とも評価される。また、王朝交代に協力しなかったため、かつての弟子である鄭道伝、趙浚、南誾らとも政治的に対立した。
1392年には鄭夢周暗殺事件に連座して追放され、その後も各地で流刑生活を送った。朝鮮建国後、太祖となった李成桂は李穡を厚遇し、出仕を求めたが、李穡は滅びた王朝の士大夫として故郷に葬られるだけだとの意思を示し、最後まで応じなかった。1396年、驪江へ向かう途中で死去した。
詩文と教育に残した足跡
著作には「牧隠詩藁」「牧隠文藁」があり、「牧隠稿」全55巻には1万首を超える詩と多数の文章が収められている。その作品は、高麗末期の知識人社会や政治状況を知るための重要な史料とされる。
朝鮮王朝の正史「太祖実録」は、李穡について学識が深く、後進の教育に力を尽くし、筆を執れば直ちに精緻で切実な文章を書いたと評した。李穡は成均館教育の復興と性理学の普及に貢献した一方、王朝が変わった後も高麗への節義を守り抜いた人物として記憶されている。
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