高麗の国づくりを設計した崔承老 「時務二十八条」で儒教政治を提言

高麗の国づくりを設計した崔承老 「時務二十八条」で儒教政治を提言

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新羅から高麗へ渡った学者

崔承老(チェ・スンノ、927~989年)は、高麗前期を代表する儒学者、文官で、文章家や詩人としても知られる。慶州に生まれ、父の崔殷含は新羅の身分制度で「六頭品」に属する官僚だった。935年、新羅最後の王・敬順王が高麗の太祖に服属すると、崔承老も父に従って高麗に入り、都の松都に定着した。

その誕生には伝説も残る。『三国遺事』によると、崔承老が生後3カ月にも満たないころ、後百済の甄萱が新羅の都・徐羅伐を攻撃した。避難を迫られた父は、幼い息子を衆生寺の観音菩薩像の下に隠し、無事を祈ったという。半年後に戻ると、子どもの体は洗ったばかりのように清らかで、口には乳の匂いが残っていたと伝えられる。ただし、父子の漢字表記は『高麗史』と『三国遺事』で異なる。

12歳で太祖の前に立つ

幼いころから学問と文章に秀で、938年には12歳で太祖の前に進み出て『論語』を読んだ。太祖は褒美を与え、官学機関で学び続けられるよう取り計らった。崔承老はその後、比較的早くから文章や学問にかかわる官職を務めたとみられる。

新羅の六頭品出身の知識人には中国・唐への留学経験者が少なくなかったが、崔承老は国内で学問を修めたと考えられている。光宗期に文書を担当したとの記録はあるものの、政治への関与の度合いは明らかでない。後周出身の双冀が登用された後、十分な待遇を受けられなかった可能性も指摘される。政治家として本格的に力を発揮したのは成宗の時代だった。

「時務二十八条」で改革の方向示す

982年、成宗は都の五品以上の官僚に対し、政治と行政の長所や問題点を論じる意見書を提出するよう命じた。当時、行政上の要職にあった崔承老は、28項目からなる「時務二十八条」を提出した。現在まで内容が伝わっているのは22項目である。

意見書では、太祖から景宗まで5代の王の統治を評価したうえで、北方地域の境界確定と防衛策、社会問題、中国との向き合い方などを論じた。仏教行事の功徳斎を廃止し、僧侶の宮中出入りを制限することや、国王が仏教を過度に崇拝しないよう求める提案も盛り込んだ。仏教勢力の弊害と国家財政への負担を指摘し、儒教的な政治理念に沿った国政運営を唱えた。

崔承老が構想したのは、国王が国政の中心として積極的に役割を果たしながら、臣下と緊密に協議し、互いの独走を抑える政治だった。成宗は提言の多くを受け入れ、新たな政治制度や地方統治体制の整備に反映させた。時務二十八条は、高麗初期の政治状況と政治思想を伝える重要な史料にもなっている。

儒教儀礼への転換と反発

崔承老ら儒学者は、仏教を個人の心身を修める教え、儒教を国家統治の原理と位置づけた。経済的負担が大きかった国家行事の燃灯会と八関会を中止し、天を祭る圜丘祭や、土地と穀物の神を祭る社稷祭などの儒教儀礼に置き換えた。

しかし、こうした措置は官僚の反発を招き、民衆からも支持を得られなかった。成宗の死後、契丹との戦争を経験すると、燃灯会と八関会の再開を求める声が強まった。顕宗の即位後に両行事は復活し、契丹の侵攻を受けて開京から清州へ避難した顕宗が清州の行宮で燃灯会を開いてからは、法的にも定例行事となった。その後の高麗では、仏教と儒教の二つの体系を軸に国家儀礼が営まれたとみられる。

成宗を支えた政治家

時務二十八条を提出した後、崔承老は若い成宗を側近として支えた。983年に文下侍郎平章事となり、知制誥を兼任。同年には李夢游、劉彦儒、盧奕とともに科挙の進士を選抜した。988年には文下守侍中へ昇進し、清河侯に封じられ、食邑700戸を与えられた。何度も辞職を願い出たが、成宗は認めなかった。

989年6月17日、63歳で死去した。成宗は布や穀物、香料、茶など多くの品を弔慰として贈り、太師を追贈した。998年には崔亮とともに成宗の廟庭に祭られ、1033年には大匡と内史令の称号も加えられた。諡号は文貞。

崔承老が韓国史で重視されるのは、時務二十八条を通じて高麗初期の課題を具体的に示し、儒教理念に基づく国家運営の方向を打ち出したためだ。その提言は成宗期の国家体制整備に大きな影響を与え、国王と臣下が協力しながら相互に権力を抑制するという政治構想を後世に伝えた。

Source: Original Korean article - Trendy News Korea

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