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釜山で育まれた抗日の意識
韓国の独立運動家、朴次貞(パク・チャジョン)は1910年5月7日、当時の慶尚南道東莱郡、現在の釜山市に生まれた。父は日本による侵奪に抗議して自ら命を絶ち、叔父や兄たちも抗日運動に加わった。母方にも独立運動家やハングル学者につながる親族がおり、民族運動と深く関わる家庭で育った。
1924年から朝鮮少女同盟東莱支部で活動し、日新女学校では抗日学生運動や同盟休校を主導した。そのため何度も逮捕、拘束された。校誌には、抗日の意識を映した小説「徹夜」を発表している。卒業後は東莱青年会の婦女部長を務め、1927年には女性団体「槿友会」の東莱支会結成に参加した。
女性運動と光州学生運動への連帯
京城(現在のソウル)に移った朴は、民族主義系と社会主義系の女性が協力した槿友会で指導的な役割を担った。1929年には中央執行委員などに選ばれ、宣伝や出版を担当。女性の社会的地位向上と民族独立をともに目指した。
1930年1月には、光州学生運動に呼応してソウルの女子学校11校の生徒が行った抗議行動を舞台裏で支えた。労働者のストライキや後続デモを主導した疑いで日本の警察に逮捕され、拷問を受けた。西大門刑務所に収監された後、3カ月で病気を理由に保釈された。
中国亡命、義烈団の中核へ
国内で相次いで逮捕された朴は、義烈団員として中国で活動していた兄の連絡を受け、1930年春に船で亡命した。中国では、それまでの抗日運動歴を認められ、朝鮮共産党再建設同盟の中央委員や義烈団幹部となった。北京の華北大学を卒業し、政治学校の運営にも加わった。
北京では義烈団を率いた金元鳳(キム・ウォンボン)と出会い、1931年に結婚した。1932年に南京へ移ると、朝鮮革命軍事政治幹部学校の女子部教官として、女性訓練生の教育と訓練を担当。独立運動を担う人材の育成に力を注いだ。
女性部隊を率い、日本軍と交戦
朴は1935年、民族革命党を支援する南京朝鮮婦女会を結成し、女性の独立運動家を育てた。中日戦争が始まると、文章や放送を通じて日本の侵略戦争を批判し、朝鮮女性に団結と闘争を呼びかけた。
1938年、朝鮮民族戦線連盟が中国側と連携する武装組織「朝鮮義勇隊」を結成すると、朴は女性兵に相当する婦女服務団の団長に就いた。組織運営や教育だけでなく、自ら武装闘争にも参加した。1939年、江西省の崑崙山で日本軍と交戦して負傷。その後は銃創の後遺症と持病の関節炎に苦しみ、1944年5月27日、重慶で35歳の生涯を閉じた。
長く埋もれた評価
遺骨は日本の植民地支配から解放された直後の1945年12月に朝鮮へ戻り、金元鳳の一族の墓がある慶尚南道密陽に葬られた。しかし、朴が社会主義系の運動に加わり、金元鳳も後に北朝鮮へ渡って閣僚級の職に就いたことから、韓国では長く十分な評価を受けられなかった。
韓国政府は1995年、功績をたたえて建国勲章独立章を追贈した。釜山市東莱区には生家が復元され、同市金井区には銅像が建てられている。学生運動、女性運動、教育、そして対日武装闘争へと活動を広げた朴次貞の足跡は、女性が独立運動の支援者にとどまらず、組織者や戦闘の担い手でもあったことを伝えている。
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