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王室を離れ、自ら出家の道へ
高麗王朝の僧、義天(ぎてん、1055~1101年)は、仏教典籍の集成と天台宗の確立を通じ、宗派間の対立を乗り越えようとした人物である。高麗の都・開京で文宗と仁睿王后の四男として生まれ、俗名を王煦、法名を義天、号を祐世とした。順宗、宣宗、粛宗の実弟にあたる。
王室で育った義天だが、文宗が王子たちに出家の意思を尋ねると、自ら僧になる道を選んだ。1065年、母方の叔父にあたる景徳国師・爛円を師として霊通寺で学び、同年に具足戒を受けた。仏教の経・律・論にとどまらず、儒教の経典や歴史書、諸子百家の思想まで幅広く修めた。
師の死後はその講義を引き継ぎ、1067年には文宗から「祐世」の号と僧統の職を授けられた。当時の高麗仏教は多くの宗派に分かれ、禅宗と教宗の対立も深かった。義天は複数の宗派と新羅以来の禅・教両系統を研究し、仏教学の大家として知られるようになった。
宋で出会った各宗派の学僧
義天は宋の僧・浄源法師と書簡を交わした後、1085年、宣宗の引き留めを押し切り、弟子の寿介と海を渡った。渡航が知られると高麗朝廷は随行者を送り、宋の哲宗も役人を付けて一行を案内させた。
宋の都・汴京では華厳の学僧と交流し、相国寺では雲門宗の僧を訪ねた。興国寺ではインド僧から現地の事情と学問について聞き、杭州では浄源法師と華厳経や楞厳経、円覚経、大乗起信論、天台・賢首教学をめぐって議論した。宋で面会した高僧は50人余りに及んだという。
天台山では天台教学を大成した智顗の塔に礼拝し、高麗で天台宗を再興するとの願文を記した。義天の名声は遼にも伝わり、遼の道宗は義天から戒を受けて師弟の縁を結んだ。義天の帰国後も、経典や茶、香、金、絹などをたびたび贈った。
東アジアの仏教書を集め「教蔵」を刊行
義天は1086年、仏教典籍3000巻余りを携えて高麗へ戻った。国王と王后の出迎えを受け、興王寺の住職として天台教学を整理し、弟子を育てた。宋の学僧との書簡や書籍の交換も続け、浄源法師には華厳経と経典収蔵施設の建設費として金2000両を送った。
最大の事業は、仏教経典の注釈書を集成した「教蔵」の編纂・刊行である。義天は興王寺に教蔵都監を置き、遼、宋、日本から入手した仏教書約4000巻と、高麗に残る古書を収集した。これにより「高麗続蔵経」と呼ばれる4740巻余りが刊行された。
刊行対象を整理するため、義天は全3巻の「新編諸宗教蔵総録」を編集した。経・律・論そのものではなく、それらを解説する注釈書を集めた目録で、朝鮮半島では初めての試みだった。
義天はその後、興円寺や海印寺、興王寺で活動した。母の仁睿太后と兄の宣宗が亡くなると海印寺に退いたが、献宗の要請を受けて開京に戻り、再び興王寺の住職を務めた。
天台宗を開き、禅と教の融和を目指す
1097年、義天は新設された国清寺の初代住職となり、天台教学を講じて高麗天台宗を開いた。その狙いは、天台思想を基礎として禅と教を調和させ、分裂した仏教界をまとめ、国家の基盤を強めることにあった。1099年には天台宗で初めて僧侶登用試験が行われ、1101年には国家による天台宗の大選が実施された。
義天は国内で後進を育てる一方、宋の僧や仏教学者との思想交流を続けた。門下からは教雄、澄儼、寿介ら高僧160人余りが出た。粛宗の子である澄儼も義天のもとで出家し、その法統を継いだ。
関心は仏教界だけに限られなかった。義天は粛宗に貨幣鋳造を提言し、粛宗は鋳銭都監を設置して海東通宝、三韓通宝などの銅銭を発行した。こうした貨幣論には、義天が中国で得た経験が反映されていたとされる。
多くの著作、現存するものはわずか
義天は「新集円宗文類」22巻、「釈苑詞林」250巻、「刊定成唯識論単科」3巻、「天台四教儀注」3巻など多数の著作を残した。死後には弟子たちが行跡と文章を集め、「大覚国師文集」23巻と「大覚国師外集」13巻を編纂した。華厳経180巻を含む300巻余りを当時の自国語に訳し、講義したとも伝えられる。
ただし、その大半は失われた。現在まで伝わるのは「新編諸宗教蔵総録」3巻、文集と外集の残巻、「新集円宗文類」「釈苑詞林」の一部、「刊定成唯識論単科」の序文などに限られる。
「大覚国師」として残った名
1101年10月3日、粛宗は義天を国師に任命した。病が重くなった義天は、見舞いに訪れた粛宗に対し、正しい教えの再興を願ってきたが病に阻まれたと述べ、国王が真心を尽くして仏法を守るよう求めた。同年、義天は総持寺で入寂した。47歳、出家後36年だった。
粛宗は訃報を受けて朝議を取りやめ、臨時の休日を定め、自ら荼毘の儀式を執り行った。舎利は霊通寺東側の山の石室に納められた。霊通寺には歴史書「三国史記」の編纂でも知られる金富軾が文章を記した碑が、仙鳳寺には「海東天台始祖大覚国師碑」が建てられた。諡号は大覚国師である。
仏教典籍の整備と高麗続蔵経の刊行、宋で学んだ新たな文化の導入、天台宗の創設による教団統合への取り組みが、義天の主な功績とされる。現在の大韓仏教天台宗も、義天を朝鮮半島の天台宗を再興した祖師と位置づけ、三大宗祖の一人として仰いでいる。
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