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10歳で世子妃に
恵慶宮洪氏は、朝鮮王朝第21代国王・英祖の次男、思悼世子の妻であり、第22代国王・正祖の母として知られる。1735年、漢城府に洪鳳漢と韓山府夫人李氏の次女として生まれた。父方は宣祖と仁穆王后の娘、貞明公主につながる家系だった。
1743年に思悼世子の妃に選ばれ、翌1744年、10歳で世子嬪に冊封された。祖父は礼曹判書まで務めたが、家計は豊かではなく、十分な嫁入り道具を用意できなかったと、本人が後に回顧録へ記している。英祖の特別な指示により、父から『小学』『内訓』などを学んだ。
思悼世子との間には、英祖が期待を寄せながら早世した懿昭世孫と、後の正祖となる李祘が生まれた。
米びつに閉じ込められた夫
1762年、羅景彦が思悼世子の10項目にわたる非行を訴えたことで、王室を揺るがす事件が起きた。英祖は自ら取り調べた後、世子の身分を剥奪して庶人とし、木製の米びつに閉じ込めた。思悼世子は猛暑の中、8日間出ることを許されず、餓死した。
英祖は亡き息子に「思悼」の諡号を与え、洪氏には「恵嬪」の号を授けた。恵嬪はその後、宮廷を離れて実家で暮らした。
事件の背景については、英祖の政治路線を支えた洪鳳漢系の外戚勢力と、それに反対する老論勢力との対立があったとの見方もある。洪鳳漢を攻撃するため、思悼世子の問題が政治争点として利用されたという解釈だ。当時の上疏には、世子の問題行動を隠したとして洪鳳漢を批判する内容が数多く見られる。
世孫・李祘を守った母
1769年、世孫だった李祘が妓房に出入りしていたことが恵慶宮に伝えられた。息子が父の思悼世子と同じ道をたどることを恐れた恵慶宮は、父の洪鳳漢に事態の収拾を求めた。いったん拒まれると断食で抗議し、最終的に洪鳳漢が関係した妓生を流刑にして決着させたという。この出来事は王朝実録にはなく、『閑中録』に記されている。
一方、洪鳳漢は政敵の攻撃を受けて政界を退き、異母弟の洪麟漢とも対立した。1775年、英祖が世孫に代理聴政を任せようとすると、洪麟漢は強く反対した。このため正祖の恨みを買い、即位後に死を命じられた。
国王の生母となっても続いた複雑な立場
1776年に英祖が83歳で死去すると、李祘が25歳で正祖として即位した。正祖は父に「荘献」の諡号を贈り、母の恵嬪には「恵慶宮」の宮号を献じた。
ただ、正祖は思悼世子ではなく、伯父に当たる孝章世子の養子として王位を継いだ。このため、恵慶宮の公式な身分は生涯、世子嬪にとどまった。それでも正祖は生母を「慈宮」と呼び、事実上、王大妃に相当する待遇をした。王室最年長だったが、序列では10歳年下の貞純王后に次ぐ第2位だった。
王室内部を伝える『閑中録』
恵慶宮は正祖、純祖の時代にわたり、思悼世子の死と約60年に及ぶ宮廷生活を自伝的に書き残した。『閑中録』は一度に完成した作品ではない。十数年にわたり、異なる目的や読み手を想定して書かれた複数の文章を、後世の人物がまとめたものとされる。
正史では分からない思悼世子の死の経緯や王室内部の出来事、人物の性格、会話が詳しく描かれている点で重要な記録と評価されている。1795年の還暦にも回顧録を書き、正祖の死後、実弟が処刑され、父が再び逆賊として攻撃されると、正祖の生前の言葉や過去の事実を挙げながら親族を弁護した。
1800年に正祖が死去し、孫の純祖が即位した後には、書名の漢字を『閑中録』から『恨中録』へ改めた。一方、1910年以降、一部の韓国史学者からは、執筆の主な目的が本人と実家の弁護にあったのではないかとの疑問も提起されている。
死後、皇后に追尊
恵慶宮は1805年ごろから長く病床にあり、1815年旧暦12月15日、昌慶宮の景春殿で81歳の生涯を閉じた。西暦では1816年1月1日に当たる。死後、「献敬嬪」の諡号を受けた。
純祖の即位後、恵慶宮は正祖の約束を根拠に実家の名誉回復を求め、1814年に洪氏一族は復権した。1854年には新たな尊号が加えられた。
1899年、高宗が思悼世子を荘宗大王に追尊すると、恵慶宮も献敬王后となった。その後、夫が荘祖懿皇帝に格上げされたことに伴い、献敬懿皇后とされた。墓は夫とともに京畿道華城市の隆陵にあり、近くには正祖と孝懿王后の健陵がある。
映像作品にも描かれた生涯
思悼世子の妻、正祖の母として王室の悲劇と激しい政治対立を経験し、それを自ら記録した恵慶宮洪氏。その生涯は小説やドラマ、映画で繰り返し取り上げられてきた。2007年のMBCドラマ『イ・サン』ではキョン・ミリ、2015年の映画『王の運命―歴史を変えた八日間―』ではムン・グニョン、2021年のMBCドラマ『赤い袖先』ではカン・マルグムが演じた。
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