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平壌から東京音楽学校へ
尹心悳(ユン・シムドク)は、日本統治下の朝鮮で西洋音楽の道を切り開いた声楽家であり、韓国初のソプラノ歌手として知られる。1897年7月25日に平壌で生まれ、幼少期を鎮南浦で過ごした。号は水仙。敬虔なキリスト教徒の家庭で育ち、教会を通じて歌と音楽に親しんだ。
学校の師範科を卒業後、江原道原州で約1年間、小学校教員として勤務した。当初は医師を志したこともあったが、自身の適性を考えて音楽を選択。官費留学生として日本へ渡り、青山学院を経て東京音楽学校声楽科で学んだ。同校初の朝鮮人学生で、1922年の卒業後も1年間、助手として過ごした。
家族にも音楽を学ぶ者が多く、妹の尹聖悳はピアノ、弟の尹基成は声楽を専攻した。尹心悳は自らの学費を使い、弟妹の米国留学も支えたという。
朝鮮の舞台を沸かせた「最初のソプラノ」
留学中の1921年、尹心悳は在日朝鮮人留学生が組織した同友会の朝鮮巡回公演に参加し、演劇の幕間で独唱した。音楽家の洪蘭坡の紹介で加わり、公演の総演出を担当した劇作家・金祐鎮(キム・ウジン)とも親交を深めた。
1923年6月に帰国すると、ソウル・鍾路の中央青年会館で独唱会を開いて本格的にデビューした。専門的な声楽教育を受けた人がまだ少なかった時代、豊かな声量と堂々とした舞台姿で注目を集め、ソウルの音楽会には欠かせない存在となった。
ただ、クラシック音楽の公演報酬は交通費程度にすぎず、声楽だけで生活することは難しかった。両親の生活費や弟妹の留学費も背負っていた尹心悳は、講師を務めながら京城放送局に出演し、セミクラシックや大衆歌謡へ活動の幅を広げた。劇団・土月会では主演も務めたが、演技への評価は厳しく、俳優として成功することはできなかった。
私生活を巡っては、結婚話の破談や男性関係について根拠のないうわさが相次いだ。一時はハルビンへ逃れ、その後、義兄の死を受けて姉を慰めるため帰国した。
大阪で録音した「死の讃美」
妹の学費を工面するため、尹心悳は1925年、大阪の日東レコード会社と契約した。翌1926年、妹の留学を見送るため日本を訪れ、同社で24曲を録音した。生活のため大衆歌手へ転じた彼女が残した代表曲が「死の讃美」だ。曲は現在まで歌い継がれ、尹心悳を象徴する作品となっている。
同年8月3日、尹心悳は金祐鎮とともに、下関から釜山へ向かう関釜連絡船トクジュ丸に乗船した。しかし、船が対馬海峡を航行している間に2人の姿は消え、尹心悳は8月4日付で行方不明と記録された。乗客名簿を調べると、金祐鎮の号「金水山」と尹心悳の号「尹水仙」に当たる乗客が見当たらなかった。
証拠のない「心中説」
韓国民族文化大百科事典は、既婚者だった金祐鎮との恋愛によって追い詰められた2人が海へ身を投げたと説明している。一方で、2人を目撃した乗客はおらず、遺書も残されていない。生前の2人を知る人々は恋人関係を否定し、作家の趙明熙も関連報道を「風聞にすぎない」と退けた。
当時の朝鮮の新聞や雑誌は、2人が抱き合って海へ飛び込んだ「朝鮮初の心中事件」として大々的に報じた。しかし、2人が恋人だったとの話が広がったのは失踪後で、死の経緯は解明されていない。心中説のほか、事故説、他殺説、死を装った生存説も唱えられた。
イタリア・ローマで2人が楽器店を営んでいるとのうわさまで流れ、店名や地域名も報じられた。金祐鎮の家族が朝鮮総督府を通じて大使館に確認を求めたものの、事実ではないとの公式回答が届いた。こうした失踪への関心と尹心悳の悲劇的な人生が重なり、「死の讃美」は大きな売り上げを記録して社会現象となった。
映像と舞台で語り継がれる生涯
尹心悳の人生は、その後も繰り返し映像化、舞台化されてきた。1969年の映画「尹心悳」、1991年の映画「死の讃美」に続き、2018年にはSBSドラマ「死の讃美」でシン・ヘソンが尹心悳を演じた。2022年にはApple TVのドラマ「パチンコ」シーズン1にも登場している。
ミュージカル「死の讃美」も2013年以降、韓国で繰り返し上演された。東京で西洋音楽を学び、朝鮮のクラシック界で脚光を浴びながら、放送、演劇、大衆歌謡を渡り歩いた尹心悳。経済的な苦境の中で録音した一曲と、日韓を結ぶ連絡船上で起きた未解明の失踪は、約1世紀を経ても人々の記憶に残り続けている。
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