名門官僚から独立運動へ 新興武官学校を築き、韓国初代副大統領となった李始栄

名門官僚から独立運動へ 新興武官学校を築き、韓国初代副大統領となった李始栄

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李始栄(イ・シヨン、1868~1953年)は、朝鮮王朝の名門官僚家に生まれながら、韓国併合後は一族の財産を独立運動に投じた人物だ。中国東北部で独立軍幹部を育てる新興武官学校の設立を主導し、大韓民国臨時政府では法務や財政を担った。解放後の1948年には、大韓民国の初代副大統領に選ばれている。

官僚の道を捨て、国権回復運動へ

李始栄は1868年12月3日、漢城府苧洞、現在のソウルに生まれた。先祖には朝鮮王朝の最高官職である領議政を務めた人物がおり、父の李裕承も高官だった。漢学を学んだ李始栄は科挙に合格し、刑曹佐郎や承政院右承旨などを歴任した。

転機となったのは、日本が韓国の外交権を奪った1905年の第2次日韓協約(乙巳条約)だった。外部交渉局長だった李始栄は条約の受け入れに反対し、成立後に辞職。条約締結に関わった朴斉純の家との間で進んでいた、親族の婚約も取り消した。その後は近代学校の設立や愛国啓蒙運動に取り組み、安昌浩や李会栄らと秘密結社・新民会を組織した。

一族の財産を独立軍教育に

1910年の韓国併合後、朝鮮総督府の中枢院副賛議に任命されたが、就任を拒んだ。同年末には兄弟らと財産を独立運動の資金に充て、家族を伴って西間島へ亡命した。

亡命者たちは現地に移り住んだ朝鮮人の生活基盤を整えるとともに、教育と独立軍養成を進めた。李始栄は1912年、新興講習所を新興武官学校へと拡大。学校では軍事理論や兵法、戦術を教え、1919年の三・一独立運動後には学生数が約600人に達した。1920年8月の閉校までに約3500人の幹部を輩出し、卒業生らは日本軍と独立軍が戦った青山里の戦いでも中心的な役割を果たした。

臨時政府の法務と財政を支える

李始栄は1919年、上海で大韓民国臨時政府の樹立に参加し、初代法務総長となった。同年9月に統合臨時政府が発足すると財務総長を務め、1926年ごろまで国務委員として資金調達に力を注いだ。臨時政府の存続をめぐって内部対立が起きた際には、金九や李東寧らとともに組織を維持すべきだと主張した。

1930年代には韓国独立党や韓国国民党の結成に参加。日本の中国侵略が拡大し、臨時政府が各地を転々とした後も、国務委員や財務部長、臨時議政院議員として財政と予算を担当した。臨時政府の基本原則を定めた「大韓民国臨時憲章」10カ条の起草にも加わり、1944年には監察委員長に就いた。

教育事業は現在の慶熙大学へ

日本の敗戦後の1945年11月、李始栄は金九、金奎植らとともに帰国した。新興武官学校の再建を試みたものの実現せず、教育機関の設立へ方針を転換。1947年に財団法人・省斎学院を設立し、新興専門学館を運営した。この学校は朝鮮戦争を経て、現在の慶熙大学へと受け継がれた。

南北分断のもとで単独政府を樹立するかどうかが争点となる中、李始栄は南部での総選挙を通じた政府樹立を支持した。1948年7月20日、制憲国会による正副大統領選挙の第2回投票で133票を得て、初代副大統領に選出された。

政府の腐敗に失望し副大統領辞任

副大統領となった李始栄は、李承晩大統領に対し、臨時政府出身者を政府に登用するよう求めた。しかし朝鮮戦争中、国民防衛軍事件などを目の当たりにして政府への失望を深めた。1951年5月9日、国政の混乱と社会の腐敗に責任を感じるとの声明を発表し、副大統領を辞任した。翌年の大統領選挙にも出馬したが落選した。

李承晩からソウル市内の広大な土地を与えると提案された際も、李始栄は「自分の家を取り戻すために満州を回り、独立運動をしたのではない」と断った。1953年4月17日、避難先の釜山で死去。「完全統一の日を見られずに目を閉じることが痛恨だ」との言葉を残した。葬儀は9日間の国民葬として営まれた。

官僚としての安定した地位を離れ、財産を独立軍教育に投じ、臨時政府の苦しい台所を支えた李始栄。大韓民国成立後も権力にとどまるより公的責任を選んだ生涯は、韓国で「ノブレス・オブリージュ」を体現した例として語り継がれている。

Source: Original Korean article - Trendy News Korea

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