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契丹の侵入に立ち向かった武将
金就礪(キム・チュィリョ、1172~1234年)は、高麗の高宗時代に契丹の残存勢力を退け、北方国境の安定に貢献した武将だ。名は金就礪のほか金就呂とも記され、本貫は彦陽。父の金富は金吾衛大将軍や礼部尚書を務めた。
父の地位を受け継ぐ蔭叙によって官職に就き、東宮衛、中郎将、将軍を経て大将軍に昇進した。妻は僕射・彦通の娘である趙氏。息子には金佺、金丹兵、金植がおり、金丹兵と金植は戦死した。
西北地方を転戦、長男を失う
1216年、モンゴル軍に追われた契丹の残存勢力が高麗の西北面に侵入した。金山と金始が「大遼収国王」を称し、その軍勢は各地で略奪を重ねた。高麗朝廷は中軍、右軍、後軍からなる三軍を派遣し、金就礪は摂上将軍として後軍を率いた。
金就礪は李哲らと契丹軍を撃退したが、この戦いで長男を失った。契丹軍は大同江を越えて開京を脅かし、鉄原を陥落させて南下した。高麗軍は三軍を五軍に再編して迎え撃ったものの敗れ、金就礪も負傷した。
その後、武臣政権の実力者・崔忠献が軍を再編すると、金就礪は前軍兵馬使に任命された。敗戦を重ねながらも反撃を続け、契丹軍を済州まで追撃。朴達峴の戦いで大勝し、敵軍を大関嶺の北側へと押し戻した。
モンゴル軍などと江東城を包囲
1218年、金就礪は上将軍兼判礼賓省事となった。趙沖が中軍元帥兼西北面元帥、金就礪が兵馬使に任じられ、金就礪は副元帥に相当する役割を担った。
高麗軍に追い詰められた契丹軍は、平壌東方の江東城に立てこもった。1219年、高麗軍は哈真率いるモンゴル軍、完顔子淵率いる東真軍と連合して城を包囲し、契丹軍を降伏させた。戦後、趙沖と金就礪が参加して、高麗とモンゴルの間で兄弟盟約が結ばれた。
義州の反乱を鎮圧
その後、義州で韓恂と多智が周辺の城と結んで反乱を起こすと、金就礪は右軍を率いて討伐に加わった。翌年に枢密副使へ昇進した後は中軍を指揮し、反乱を鎮圧。さらに部下を派遣して残る契丹勢力も討ち、北方国境を安定させた。
金就礪は枢密使、兵部尚書、参知政事などを歴任した。1232年、崔瑀の武臣政権がモンゴルの侵攻を避けるため都を開京から江華島へ移すと、金就礪も新都の江都に移り、文下侍中に上った。
厳正で清廉な指揮官
金就礪は1234年5月21日、江都で63歳で死去した。同年7月、鎮江県大谷洞の西麓に葬られた。剛直で清廉な人物とされ、軍紀を厳格に保つ一方、部下を公平にいたわり、戦場では巧みな策を用いたと伝わる。
死後、「威烈」の諡号を贈られ、高宗の廟庭に功臣として祭られた。1983年には江華島に事績碑が建立され、墓は仁川広域市文化財資料第25号に指定されている。韓国ではKBSドラマ「武人時代」とMBCドラマ「武神」にも登場し、それぞれアン・ソンミン、チョン・ホンテが演じた。
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